謎の言語を操るアマゾンの民族『ピダハン』とは何者じゃい?
アマゾンの奥地に住む「ピダハン(ピラハ族)」 という少数民族を知ってるかい?
400~500人程度の小さな民族。
彼らがしゃべる言語「ピダハン語」には
「過去」「未来」という概念がないという。
そう、あるのは、常に現在。
「いまここ」のみ・・・。
他にも、わたしたちが当たり前に使っているコトバで存在しないものがたくさんあるんだってさ。
もう、ビックリだよ。
それは一見すると、『へぇ~変なの~。』『不便じゃないの~?』と感じてしまうかもしれないけど
その意味を深く見つめていくと、なんだか色々と考えさせられることもたくさんある。
それは、現代の言語学において常識とされてきたものも根底から覆しちゃうほどのインパクトを持ってるんだ。
言語学者が驚愕の「ないものづくし」
たとえば、チョムスキーが言語にとって当たり前の存在としていた「リカージョン(言語の入れ子構造)」がない。
かと思えば、動詞の活用は65000通りもあったりする。
こうした特徴は、言語学者の間でも「ピダハン論争」として、意見が分かれている。
しかし、言語学的にどうかは置いておいたとしても、
そこには僕らが生きる上で、見習う(見直す)べき人生のヒントもたくさん見つかるかるというのだ。
それでは、そんな不思議で奥深~い「ピダハン語」の世界を、少しだけチラ見してみよう・・・
ピダハン語には、「方角」をあらわす言葉はない。
彼らは、“自分”という視点を持って物事を見る感覚よりも、
“自分も他人も、あらゆる物質もすべてを含めて” 全体の場(空間)として捉える感覚のほうが強い。
あくまでも「全体性」が、ピダハン語のベースになってるんだ。
だから、ボクから見たら左だけど、君から見たら右といった、視点によって変化するような言葉はもっていない。
誰からみても直接的に指し示すことができて、かつ普遍的なものしかコトバにはしないという掟をもっているのだ。
どうしても、方向を指し示さなければならない場合には、川の位置や地形を使って伝える。
ピダハン語には、「昼」も「夜」もない。
時間帯によって獲れる食料が違うため、ピダハンたちは何時だろうと狩りに出かける。
また、外敵い襲われる危険もあるので、「長時間つづけて眠る」という習慣もない。
よって、よく見えるかどうかという違いだけで、朝、昼、夜という区別はないのだ。
ピダハン語には、「色」や「数」をあらわす言葉もない。
特に、数字がないなんて・・・
ぼくらの暮らしてる社会では考えられないよねw
想像しただけでめっちゃ不便そうだし、ぼくらには現実的ではないかもしれない。
けど、「数字がない生活」というのは、実はとっても意味深いものがあるんだ。
なぜなら、ぼくらの生活は、お金やコンピュータをはじめ、数字によって作られた世界に“想像以上に”支配されているから・・・
物事の本質以上に、数字という実態のないものが描く情報空間の重要性が高まれば、
なぜか、必要以上に「足りない」という得体の知れない不安(恐怖)は増幅する。
時として、本来もっともたいせつであったはずのものから先に犠牲になっていく・・・。
そう、ぼくらは、「数字」というものを便利に使っているかのように錯覚しながら、
実のところ、数字のもつ「情報空間の創造力」の前では無力にもコントロールされ続けてきたのが現実なんだ。
愛する子供と話す時間よりも、月末の支払いに頭を悩ますことのほうが優先され、
自分の才能を磨いて、誰かのために役立てることよりも、
手っ取り早く給料が増えて、通帳に印字される数字が増えてくれることを、
きっと65歳になって定年を迎えるその日まで、毎日毎日考え続けるんだろうか。
いや、ちがう。
髪の毛がぜんぶ真っ白になって、病院のベットで息絶える瞬間まで数字が頭をよぎってるのかもしれないね。
「数字」がない彼らには、
「AはBよりもさらに大きい」というような「比較級」というものもない。
奪い合ったり、争い合ったりしないわけだ。
ピダハンには、「夫婦」という概念もない。
ピダハンには、「恋人」とか「夫婦」といった言葉もない。
そもそも彼らの生活をよく観察してみると、「これはボクだけのもの」「あれはアナタのもの」といった個人の“所有”という概念がとっても薄い。
誰とでもSEXもしちゃうファンキーモンキーベイベー!
というのは言い過ぎかもしれないが、
『結婚?永遠の愛を誓う?それって・・・何の意味があるの?』
って感じかもしれないねw
ピダハン語には、「ありがとう」「こんにちは」「さようなら」という挨拶もない。
驚くことに・・・、ボクらが、ふだん当たり前に使っている「ありがとう」や「こんにちは」にあたるコトバもないという。
他にも、「ご機嫌いかがですか?」「すみません。」「どういたしまして。」のような、いわゆる挨拶のようなものは存在しないみたいなんだ。
「ありがとう」はイイ言葉だからあったほうがいい!と思う人も多いかもしれないよね。
でも、もちろん彼らにも感情はあるから、行動によって彼らなりに感情表現をする。
大事なのは行動であり、とても身体的なんだ。
「ありがとう」という言葉に感謝の意味をつけてしまえば確かに早いけど、それを多用してしまうと、
本来のキモチや感情の部分が薄まって使われてしまうこともあるだろう。
今から、近くのコンビニにでも行って、おにぎりでも買ってきてみよう!
おそらく、かなりの確率で・・・
「リガトウゴザイやシタァーーっ!」
とか言ってくれるはずだけど・・・
きっと何の感情も入ってないのがわかると思うんだよね。笑
(もちろん、感情込めてくれる人もいるけどね)
むしろ、心の中では、『はやくバイトおわんねぇーかなぁ。。。』とか、
『キモチわりー顔してんなぁ~、この客。』なんて思われてるかもしれないよ。(´・ω・`)ムキッ
もうね、コトバが便利すぎるあまり、溢れかえっちゃって有難みもクソもなくなっちゃってるよね。
自動販売機ですら、ありがとうって言ってくれる世の中だぜw
・・・まぁ何が言いたいのかっていうと、そうやってカンタンに言葉というものに置き換えて伝えられるって、
すごく便利な反面、その奥にあるもっとも大切な部分が見えづらくなったり、ないがしろにされちゃうリスクもあるってことなんだよね。
ちょっと試しに、今日から「言葉」を使わないで、ありがとうを伝えなくちゃいけないゲームをしてみようか・・・w
君なら、どうやって伝えるだろう?
顔をクシャクシャにして満面の笑みで表現してみたり・・・
ウィンクしてみたり、欧米人のようにハグでもして伝えるのかな。
それって、とても音楽的で、使い慣れた言葉よりもストレートに響くような気もするんだよ。
コトバは、そんな人間らしいリアルな部分を包み隠してしまうこともあるのかもしれない。
ピダハンたちが、あいさつ言葉を軽々しく用いないことにも、そんな意味があるのかもしれないね。
リアルに生きようぜ!
とここまで、ピダハンの「ないもの」について語ってきました。
いや、もうホント、「ない」からこそ伝わるものって「ある」よね。
それが人間の不思議。人体の不思議でもある。
ピダハンはそういうところに気づかせてくれるよ。
都会で言葉にかぶれた僕たちだけど、もっと伝え合いたい、感じ合いたいものっていくらでもあるわけだしさ。
そっちの方がリアルなんだけど、いろいろと余計なものが貼り付いちゃったものだね。
でもね、素直に、リアルに生きたっていいんだよ。
誰も止めやしないさ。
ピダハンについては実はまだまだあるんだけど、あまりにも長くなりそうなので、今日はこの辺で。
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↑こっちはだいぶ長文です。言葉がないことについて、長文で語るなんてウケるけどねw
最後まで読んでくれてありがとう!
それではまた会いましょう。
↑ゼっタイに見ルなヨ……