自由を目指し不合理を自覚せよ
人間にとって、一番大切なモノ。
いろいろな定義があるだろうが、「自由」と答える人も多いだろう。
だが、我々は本当に自由たり得るのだろうか。
このような問いは、古来より哲学的に探究されてきた。そもそも自由意思とはどう定義されるのかという点でもいろいろな見解が存在し得る。
ただ、今回の記事ではそこまでDeepな議論をするつもりはない。
自由だと思ってなす選択が、誰かにとってControllable(操ることが可能)なことが多いということに気づくことが大切だという意識をもって書いている。願わくは個々人にUncontrollableな存在を目指して欲しい。
※本記事におけるUncontrollableは、他者からの他者の利益を目的としたControlを受けないこと=他者側視点ではその人を自己利益のためにControlすることができないこと、と定義します。
心理学にやっと気づいた経済学
認知心理学のような実験的な心理学における過去の成果は、様々な状況での人間の心理の働きを予測する点で非常に有益である。実際、行動経済学という経済学の分野は心理学と切っても切り離せない関係がある。
行動経済学は、それまでの経済学の常識を破壊する効果を秘めたものであった。曰く、人間の判断は非合理だということを経済学はとりいれなければならないというのである。
一番単純な経済学の考え方では、需要と供給の線が交わる点で価格が決まる、といったことを考える。高校や大学で習った人も多いことと思う。
ただ実際にはこのモデルには、様々な仮定が含まれており、現実の経済はかように簡単なものではありえない。例えば、すべての人が同じ情報を持っているといったような現実にはあり得ない仮定である。
もちろんこのような事は当たり前であるから、そういった点を考慮したような経済理論だったりがいろいろと生まれてきた。ただし、仮定の中でも自明なことだと考えられているものに関しては、補正が行われてこなかった。
具体的には、行動経済学以前は、「人間は与えられた情報で考え得る範囲で自己の利益を最大化する選択を取る」ということを自明な仮定としていたのである。この仮定については疑われてこなかったということだ。
ただそれが完全な誤りであることはすでに明らかになった。人間は不合理な生き物なのである。
さて、ヒューリスティックスやバイアスという言葉を聞いたことがあるだろうか。ヒューリスティックスは経験や先入観に基づいた思考、バイアスというのは認知的な偏りを指す。
全ての人間にはバイアスがあり、ヒューリスティックスを利用して行動しがちである、ということが心理学によって明らかになってきたことなのである。これが人間が不合理であるということだ。
どのような不合理な事例があるかは、すこし上の用語で検索をかければわかるので具体的には書かないが、客観的判断、論理的判断を人間が行うのは実はすごく難しいのである。
問題提起:不合理さを自覚せよ!
ここまで述べてきたことで問題提起したいことが2つある。
1つは、まだまだ自らの不合理さに無自覚な人が多いということ。
もう1つは、不合理さは誰かにControlされることにつながるということだ。
まず前者について述べる。
行動経済学の登場まで、人間の不合理な選択が経済学の理論に反映されなかったということはすでに述べたとおりだ。経済学の始まりは、1758年にケネーが『経済表』という著書を著したときとされるが、行動経済学が始まったのは早くても1950年代であり、事実上1990年代以降に注目を集めるようになる。つまり、その間の多くの賢い経済学者はそのことに気づいていなかったことになる!
賢い学者でさえ何世代も気づかなかった事実は、もちろん現代人だから皆が知っているということはありえない。
この事実が示唆するのは、人間は自らの思考・判断・行動における不合理性にあまりにも無自覚な存在だということだろう。もちろん、自覚をしたところで不合理であることは変わらないが、少なくとも不合理性を可能な限り排除するという方策を立てることができる。どのような不合理性があなたにも私にも存在しているのか、ということを認識すればより賢明な選択を取れるようになるだろう。
さて、ここで不合理だと自覚しないのは悪いことか?という論点が生まれることと思う。別に不合理な判断をした人が損をするだけであって、自業自得ではないかということだ。
私は悪いことだと考えている。なぜなら、これは単に損をするということではないと考えるからだ。不合理な判断をすることで我々は自由を失っていると考えている。
これが後者の話である。
人間の不合理な選択は先ほど述べたように心理学的に研究されてきた成果である。これはいろいろなところで人々をControlするのにつかわれているのである。
例えばアンケート調査。調査の選択肢をうまく作りこむことによって結果をControlすることが可能である。
いろいろな手法があるが、1つには選択肢の配置によって多く選ばれる選択肢が変わってくるという研究がある。この時の配置というのは紙上の右左といった位置関係といった意味でもあるし、質問の順番といった意味でもある。どちらにしても回答結果に偏りを生み出すことが可能なのだ。また選択肢の文言によってもControlが可能であることも明らかになっている。
もちろんアンケート調査がControllableであるということは、世論だって簡単にControlできるということだ。
他にも例えば商品を選ぶときの方法。複数の製品を項目別に比較するような宣伝をみたことがないだろうか。イヤホンだったら、音質、重さ、値段…のような項目があって複数の商品を比較しているようなものである。
このときにたいていの人は自分にとって一番理想的なものを選べると思う。それは自分の価値観によって決めた選択だと感じるはずだ。ただしものによってはメーカー側がある商品を買わせたいと決めている場合もある。そのような場合には特にそこにもControlのための仕掛けが埋め込まれている場合がある。
項目を限定するという手法が有名だ。もし、その比較に項目が1つ付け加わったとしよう。例えば極端なありえない例で行けば、放射性物質がイヤホンから出るとしたらどうだろう。放射性物質排出量なる項目があったとして、それまで理想的に見えていたイヤホンが圧倒的に多かったとしたら?
おそらくあなたはそのイヤホンでないものを買うだろう。
判断基準となる項目を1つ加えるだけで選択は変わり得るのだ。そして多くの場合、判断項目を提示するのは自分ではなく販売側だ。
また、テレビやインターネットはControlのオンパレードだ。有名な人が、ある方向性の発言をするだけで多くの人はそちらに誘導される。CMは、商品そのものよりその商品を使ったことによる幸せな生活を描く(たいてい商品と幸せな生活の原因は別の話だろうに)…
これらのことから何が言えるだろうか。我々の選択は本当にControlされているのである。もちろん、自覚して個人としてあらがっている人はいるかもしれないが、まだまだ無自覚な人が多い。
人類破滅の道
このように自由を失っている人が多いことは人類規模の破滅につながる可能性が高いと私は考えている。そしてこれが私が自由を失うことが単なる個人の損ではないと言っている理由だ。
短期的には戦争だ。Cognitive Warfareの記事でもふれたが、現代ではどういう認知を人々に引き起こすかということが他国への影響を与えたりするという視点でNATOでも研究が進んでいる。今回のロシアウクライナ問題も明らかにCognitive Warfare = 認知戦の側面を持つし、トランプ前大統領の時以降盛んに言われるアメリカの分断も認知戦の面がある。
長期的には多様性の減少があげられる。多様性は最近多く取り上げられているが、多様性を叫ばなければならないという押し付けによる多様性の減少という問題点も指摘されるようになってきた。多様性を無視する人も多様性の一部であるという不都合な事実の受け入れが進んでいない。また、いくら多様性をいったところで、発展途上国は現在の先進国の姿を目指して突き進む。そのような状況下で、多くの人を一つの方向にControlできるのであればますます多様性は減少し、単一的になっていくだろう。本質的な意味で多様性を失った世界は存続しえない。人類は衰退していくだろう。
まとめ Uncontrollableな存在になるために
以上のことから私は、人々が自らの不合理性を自覚したうえで、Uncontrollableな存在を目指すべきだと考えている。哲学的な議論は置いておいて、少なくとも陳腐なControlに屈しない抵抗力を持ち、自由を行使するべきだということだ。
幸いなことに多くのControlは自覚によって逃れられる。Controlされているのは無意識的な判断が多いのだ。意識的だと感じている判断の中の無意識的なプロセスがControlされやすいのであって、そのことを意識に上げることによって前頭前野の論理的判断を機能させればある程度はUncontrollableになれるのである。
また、抽象度を上げることも重要だ。これは詳しくはまた記事に書くつもりだが、目前の利益よりその裏を見る。より高い視点で物事を判断するということだ。何かに自分の心が揺らいだ時、その理由を一段高い視点で見る。原因を探ることが抽象度向上につながる。
最後にもう一度。
ひとりひとりが、不合理性の自覚をもって、論理性を高め抽象度を向上していくことでUncontrollableな存在になること。これが人類の未来に必要なのであると私は確信しているのである。この記事がその一助になれば嬉しいし、是非私の他の記事も読んでいただきたい。