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リア充は満たされない

こんにちは、SGです。3回目の投稿になります。いよいよ新学期が近づいてきて、新しい出会いもあるのか(ないのか)という時期ですが皆様いかがお過ごしでしょうか。

今回は、リア充(と巷で言われているもの)について考えを述べさせていただきたいと思います。例によって純粋に私個人の考えというよりも、宮台真司さんはじめとした方々の言説に大きく影響されておりますのでその点ご了承ください。(レポートであれば剽窃でアウトですねえ)


手始めに、リア充という言葉の成り立ちを確認してみます。明らかにリアル+充実の造語です。リアルとは現実と言い換えてもよいでしょう。そしてそれが充実している。つまり現実社会で満たされている人間がリア充であるといえると思います。

そしてこれが、彼氏彼女がいる人のことを表す場合が多いということはご承知のとおりです。ここでよく発生する議論は、彼氏彼女がいなくても自分の好きなことをしていればリア充だというものです。この議論は、ともすればモテないもののひがみ発言ともとらえられうるものですが一定の正当性を持ちます。

ただこのことは今回私が書きたいことの趣旨ではありません。恋愛は現実社会の中に存在するものなのかということが今回の主題です。

現代社会のリアルというのは基本的に拘束されたものです。社会には様々なルールがあり逸脱を許されません。そしてそのルールというのは非自明なものも多いのです。

例えば多くの国では資本主義がとられていますが、そもそも紙切れや金属板で人の生活が大きく違ったり最悪の場合死んでしまうことは自明だとは考えられません。原始の人々は少数の仲間内で協力し狩りをし命をつないでいたので、資本主義などはなかったはずです。

さらには国家という制度もまた自明なものではありえません。再び原始の人々の例を挙げるならば、彼らは1000人を超えるような人々と一生涯で出会うことなどなかったでしょう。それ以上の人数など到底同じ人間としての仲間という認識は持ちえなかったでしょう。逆に言えば仲間は皆仲間として把握していましたし、逆に自分たちの仲間以外の人間は、他の動物と同じく敵として攻撃対象にもなっていたはずです。

今の議論によってそもそも殺人が常に悪であるということも自明でありえないという論点も生まれてきますが今回は割愛します。

ことほどさように非自明なものに縛られた現代社会のリアル。人々はそれになじむように幼少期から洗脳されて育ちます。そこでは人間本来の輝きは失われやすいものです。

一番わかりやすい例は、最近はやりの「コスパ」です。これは本来ビジネスとして利益を上げるために用いられる考え方です。これが非常に重要視され何かと取り上げられます。

ではなぜビジネスで利益を上げることが重視されるかというと、金があるほうが幸せであると考えられているからです。金があるほうが人生において楽ができたり生き方の幅が広がる(と考えられている)社会を我々が生きているからです。

さらにこれはなぜかというと、我々が非自明な資本主義社会を生きているからです。以上のことから、コスパを重要視することとは、資本主義社会という非自明な社会を生きる上で必要とされるスキルに過ぎないといえます。

ここで大切なことは、コスパを重視して行動することが今現在の社会の中を生きる手段であって、それ自体に自明な価値が存在し得るものではないということです。多くの人の生きる目的は、本質的には、いかに幸せに生きるかということなはずですのでここを取り違えてはならないでしょう。

さて、リア充議論に戻りましょう。恋愛をどのように定義するかによりますが、基本的には恋愛というのはコスパとは真逆の概念です。現代社会において不合理となるありとあらゆるものの詰め合わせ、それこそが恋愛なのではないかと思うのです。

自明なことに結婚しないカップルはいずれ別れます。にもかかわらず、相手に対して多くの時間を割きます。相手に相手の望むであろうものを与えようとします。さらに相手の行動(基本的にコントロールしえない)に一喜一憂し、時には死んでさえみようとします。一言で言って、合理性のかけらもありません。バランスを欠いた過剰で異常な行動です。コスパなどどこにあるのでしょうか。

しかし!これが幸福であるというのが人類古来からの考えです。いつの世も人は恋愛をしてきました。だからこそ今の我々がいるわけです。思えば子育てすらコスパとは無縁です。親が子供に教育費をかけるのは、大人になった時に自分に返ってくることを見越した投資行動でしょうか?そんなことはあり得ません。これも愛であり、幸福なる過剰な贈与なのです。

何を犠牲にしても、心に決めたある他人を幸福にすること。それ自体が行為者にとっての幸福となるとき。それが相互的に存在することが真の(恋)愛ではないでしょうか。

しかるに、冒頭に述べたようにリア充というのはリアルの充実を言います。インスタ等のSNSに写真をアップしてはいいねを求め、カップルYouTuberなどと言ってビジネスの餌にし、彼氏(彼女)の行動を監視し縛り上げ、デートをするにも自分がきちんとできているかばかり気にかけ… 根本的に相手への過剰な贈与が抜け落ちています。まさにコスパを重視する非自明な現実社会が投影されています。

相手への視線を失い、自己の承認と安定を求め、リア充と叫ぶ。リア充という言葉はまさしく的を射ています。かくも非自明で恋愛的な幸福にそぐわないリアル社会に、恋愛を当てはめてしまったのは大間違いです。まったく貧しいコミュニケーションではないでしょうか。

例えばそこに相手が目の前の相手である必要性はありません。自己のポジションを確保し承認されようとするものにすぎません。おそらくセックスですら2人オナニーです。

こんなリア充が果たして精神的に満たされることがあるでしょうか。私には疑わしく思えます。なぜなら、常に相手を信じ切れず不安ベースで動くからです。自分が自分のことしか見ていないことは、自分自身がよく(無意識中にでも)把握しているのですから、相手を信じられないのです。本来の恋愛ならば、お互いの過剰な贈与で真の信頼関係ができているので常に相手を信じて動けるのです。

このことは結果的に現実社会を生きるのにも足かせとなります。なぜなら前述したような現実社会においては基本的に不安ベースでの行動になるからです。孤独を感じるからです。そのような状況下では優れた成果を上げることは困難です。恋愛を通じて揺るがない絶対的なホームベース(と真に信じられるもの)を作ることで、そのような(精神的に)荒廃した社会で活躍できるのではないでしょうか(もちろんそれは非自明なもので、相手を幸せにする手段と自覚したうえで)。

以上のことが私がリア充は満たされないと考える理由です。自分こそはリア充だと思う人も、私のような残念(泣笑)な人も一つの思考として考えてみると面白いのではないかと思います。

最後にまったく話変わりますが、ラグビーの話題。われらがサントリーサンゴリアスはトヨタ自動車ヴェルブリッツとの全勝対決を終了間際のボーデンバレットのPGで制しました!来週もまたクボタスピアーズとの全勝対決が待っております。非常に楽しみです(ただ学科ガイダンスと入学式でリアタイできませんが)。

というまったくまとまりのない締めで終わりにします。読んでいただきありがとうございました。皆さまそして私の幸福な恋愛を祈願しつつ。また次のnoteでお会いしましょう。



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