アップデートに潜む欺瞞
価値観のアップデートをしなさい。今は昭和ではない。などといった言説が当たり前となった昨今だが、アップデートがグレードアップでない可能性を考えていないのは極めて滑稽である。
そもそもアップデートというのは最新のものにする、ということだ。アップデートをしなさいというとき、そこには最新のものは最高のものだという隠れた前提条件があるだろう。
だが本当にそうだろうか。そうではない事例も多くあるように思う。アップデートを主張する人がいう最新の価値観というのは、公共性のあるものなのか。人類の過去に積み上げてきた英知に照らして正しいものかきちんと検証されているのか。現代の部分的な側面のみをみて、抽象度の低い次元で、その人の実存レベルでの問題を責任転嫁するような形でのアップデートとなっていないだろうか。
少なくとも私にはこういった点が非常に疑問である。このようなことについて疑問を呈するだけで、それは間違っているというような空気感で炎上したり、議論を持っていこうとする最近の風潮には違和感を禁じ得ない。
そもそも価値観というのは多様であるべきだという前提を置こう。価値観は人によって様々であることを保証するのは良いことだ、という価値観に公共性があることは間違いないだろうし、アップデートを要求してくる人たちとも合意できるだろう。
ここで問題になってくるのは、多様性を認めるべきだけれど、○○な価値観は認めてはならないという言説だ。○○な価値観に基づく発言はおかしい、○○な価値観を持つ人は古いアップデートされていない間違った人だ、といった言説は価値観の多様性を自ら否定している。
こういった表現を制限するようなことは、価値観の多様性を重視する民主主義の中では、慎重になってなりすぎることはないことだ。
もちろんすべての表現が野放しになってよい、といっているのではない。ただしそこには公共性についてしっかりと検討することが必要である。
公共性というのは、個人の快・不快を超えた次元にある。ある表現がある個人に対して不快感を及ぼしたとして、それはただちにその表現を規制する根拠にはならない。そこには冷静な社会における議論と合意があってしかるべきなのである。
さらに言えば、特に法律的な意味で考えていくのであれば事態はさらに慎重であるべきである。道徳、規範的な意味での健全性を個人の感覚に基づいて主張していくのは決して批判される行為ではないが、それを法制化するようなことにいたってはそれは公共性の話なのだから非常に慎重になるべきである。
さて、話を戻せば、多様な価値観を尊重する時代である。この多様な価値観の存在する中におてにおいて公共性というのは非常に難しい。一筋縄ではいかない問題である。さしあたっては、他の価値観の人の存在そのものに危害を与えない限りは表現は自由とする、というようなことくらいしか言えないのではないかと思う。
例えば、「在日は死ね」といったような言説があるが、これは明らかにその属性の人の存在に危害を与えるようなものであり容認されない。ただし例えば「結婚はするべきだ」といった発言はどうだろうか。私自身はその考えには同意しないが、その言説がただちに結婚していない人の存在に危害を与えるだろうかというとそんな気はしない。これは表現の自由の1つであると思う。
これに限らずだが、特にいわゆる「ポリコレ」的なものと相いれない表現をする人がいたときに、それを批判する言説により炎上が発生することが多いだろう。そのときに、その「ポリコレ」には公共性があるのか考えたくなってしまうのである。
もし最新にアップデートされたポリコレが正しく、そうでない価値観が間違っているというのならば、そもそも価値観の多様性を否定しているだろう。そして公共性についての広い議論を尽くす前に、ポリコレが正義であるとして、その空気感で少数派を追い込むのならそれは全体主義であり価値観の単一化であり、それこそまったくアップデートされていない独裁主義になっていく。ここにおいてポリコレに公共性はまったくない。こんな単純な欺瞞がまかり通っていることは、まことに愚かしいと思う。
さてなぜこんなにも愚昧なことが多発するのかというと、しっかりとした公共性の裏付けなどを考えず、個人の快・不快が全体に当てはまるという解釈をどうしても心の中でもってしまうためだろう。これは人間の心理的にも容易にうなづけることであり、このような無意識の動きにお墨付きを与えてくれて承認してくれる人が少しいるだけで、それが皆の利益となる正しい考えだと思ってしまうものなのかもしれない。私自身、こういった心の働きを自覚するときも多々ある。
ただ、その自覚こそが大切なのだ。多様な価値観を認め、民主主義を尊ぶならば、そこでは各個人のたゆまぬ努力が要求される。それは、より冷静で高い視点に立った判断をしようとする努力であり、議論はきちんとしたCall & Responseにより成り立つ必要があるということだ。そこは単なる損得勘定におけるポジショントークや個人の感情ベースより高い抽象度を保っていく必要がある。
某氏の発言ではないが、「それってあなたの感想ですよね」ということ。もちろん、そんな感想の表現も自由である。どんどん発信して良い事だ。ただし、そんなもので「正しい」価値観を新作し、同意しない人を社会における絶対悪のように扱うことはなんの進歩も生まないだろうということだ。