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こころのはたらきと社会問題論議

こんにちは,SGです.秋学期が始まって少し経ちました.やっと授業のある日々に再び慣れてきた感じがします.春よりも授業が少ない一方で,どんどんわからなくなっていく科目もあるので大変です.

さて今回のテーマは社会問題ということですが,だいぶ抽象的であいまいと感じられる方も多いと思います.ただ,私はここ最近提起されている様々な社会問題について根底は同じだと考えています.その点ですべてを包摂するような内容になると思うのでこういうタイトルとなっています.

議論の核心をまずお示ししますと,「見たいものだけを見る」,「実存にこだわり責任転嫁する」ということです.

本当に様々な社会問題に通底するのですが,たとえば最近よく言われるジェンダーの問題で考えてみましょう.

男女差別の撤廃というのは歴史の中の重大な転換点であることは間違いないでしょう.今現在の状況は様々にとらえ方がありますが,明らかに過去に女性が差別されてきたという事実は存在します.これを改善することそのものを否定する人は多くないでしょう.

しかし,このことを巡ってはネットなどを中心に炎上が起こったり,フェミニスト,反フェミニストの争いのようになっているところを多く見かけます.

1つの問題点は,何をもって差別と定義するかです.身体的な区別があるという点で,更衣室を同じにするということを肯定する人は少ないでしょう.しかし,LGBTQの方々をどうするのかなどの問題は個々人によって立場が違うと思います.また女性専用車両となれば更衣室と違って肯定派,否定派が割れるように思います.それぞれの中にも条件付き肯定や否定,中立的改善策などがあります.

これらはほんの一例にすぎませんが,実際のところかなり込み入った問題です.ここでまず問題にしたいのは,議論を単純化できないという点です.それぞれの社会問題には階層性があります.ジェンダーという枠で行けば,その下に男女差別の問題があり,その下に更衣室や女性専用車両の存在についての問題があります.そして,その中の個々の問題について人によって意見が異なるということです.

ここについて,単純にフェミニスト,反フェミニスト(もちろんほかにも様々な立場の存在,ネーミングは無数にある)というような分け方はハナから不可能なわけです.なぜなら,一つ上の階層の問題としては同意見になる人達でも階層を下がっていく(=具体的な諸問題になっていく)と,立場は少しづつ異なってくるからです.初めいったように男女差別をなくす,というゴール自体はそれなりの普遍性があるにせよ個別的には大きく異なってくるということです.

そういった意味で当たり前ですが,ネットでコミュニティのように自分と相手を大雑把なくくりで規定して,炎上しあっているのは完全に頭が悪い行動です.これは様々な方が指摘されていることでもあり,多くの人が納得されると思うのですがなぜかやむ気配はありません.

このことについて,「見たいものだけ見る」という問題点があることがわかります.自分の価値観に合う意見を(特にネットでは)拾いやすいです.それを収集していくことで,自分の意見がすべてだ.絶対に正しいという感覚を持っていくようになります.

こうなると,異なる意見については反射的にたたくことにつながっていきます.自分の見たくない意見や情報はハナから完全に誤りとして扱うという姿勢になります.話は少しずれますが,最近の陰謀論ブームなどもこれの最たる例でしょう.

これに本質的にかかわってくるのが,「実存にこだわり責任転嫁する」ということです.なぜ「見たいものだけを見る」のかという問題に,ホメオスタシスという機能を考えることができます.ホメオスタシスとは生物用語で恒常性維持機能というものです.生物が自動的に体温を一定に保ったりすることを指すのですが,これが人間の心理にも働くことが心理学の知見です.つまり,自己の考え方やアイデンティティを一定に保つ方向の心理的制御が働くということになります.つまり心の安定のためには,一定の考え方にしがみつこうとするということなのです.

そしてより本質的に考えれば,心の安定のために人間が求めることはほぼ共通しています.自己肯定です.自己肯定というと良いモノだという認識があると思いますが,逆にそれが問題を生み出しやすいと考えます.

それはゆがんだ自己肯定が生み出す,自己正当化という論理であり,自分の思考,行動を正当化しないといけないと思ってしまうということです.「今ここ」での自分自身(実存)にこだわり,その外側が見えない,そしてその正当化が責任転嫁として表出します.

よくあるのは,自分が被害者という立場に立つということです.何らかの事象にあったときにそこで自分の思い通りにならなかったということがあるとします.もちろん相手が悪い部分もありますが,たいていの場合はある程度お互い様です.それを自分を被害者の側に設定することで正当化していくというものです.その被害としては,「ある一面としては非常に自分を正当化できる論理」を用いて主張します.相手の立場は踏まえず見たいものだけを見るということです.そしてその論理が人に認められればますますそこにこだわって自己正当化していきます.

さてここまでで,現代の問題は非常に込み入っていて,個別的な部分ではとてつもなく複雑な議論となっていることがわかりました.そのうえで,「見たいものだけを見る」,「実存にこだわり責任転嫁する」というようなあり方で存在している人が多く,非生産的な争いが発生しているということもいえるでしょう.

ではどうしたらいけばよいのか,ということですがそれを簡潔に示すことはできません.それはここまでで明らかと思います.

一つ言えることは,なんとかして人々の思考の抽象度を上げる必要があるということです.つまり,自分が良いと思い込んだ意見を実存的に盲目的に主張することは生産性を生まないということを理解し,大きなゴールへ向かうエネルギーを持つということです.

大きなゴールというのは抽象度が高い状態ともいえますし,煩悩を大きくした状態ともいえます.具体的な諸問題で立場が異なるにしても,いやだからこそ,大きなゴールの視点では仲間なのだという意識が必要です.そして,自分が主張する意見が通ることが喜びなのではなく,より多くの人が幸せを感じられるという状況を生み出すということががすべての人類にとって究極的なゴールになるということを確信できることです.自分一人の幸せを願うのは,小さい煩悩です.どうせ煩悩があるのなら,自分以外にもひろげて煩悩を大きくしたほうが良いのです.

そのような社会の構成員を生み出すことを教育というのであれば,それが正しい教育でしょう.そして,そういう人が増えるためには今を生きる我々がまず手本とならなくてはなりません.ネット上の匿名空間であるにせよ,言論空間においては,主張が相容れない相手であっても,そのゴールを確かめ,相手の立場を理解しながら建設的に議論していくというこころがけが第一歩になると思います.


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