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西洋美術史覚えて楽しく美術鑑賞しようよ① 原始美術〜メソポタミア美術

はじめに

みなさんは美術館って好きでしょうか。日本でも美術館に行く人は増えていて、特に印象派なんかは日本で絶大な人気があります。

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(クロード・モネ 睡蓮)

印象派が人気なのは、素人目に見ても彩りがきれい、分かりやすくアートっぽいっていうのがひとつあるのではないでしょうか。私も大好きです。

でも、それより前の時代のやたらリアルな肖像画とか、ましてや古代の像とか、全部同じに見えるし、何が楽しいのか分からないって人も多いんじゃないでしょうか。ルーブル美術館とか有名だからとりあえず行くけど、作品を見ては「すごい」「上手い」「やばい」しか言ってない自分自身にだんだん疲れてきて最終的に素通りする始末。(以前の私)

しかし私自身美大に通い始めて、どうやら美術史を学んだらよく分からなかった美術作品も格段に面白く見えてくるのではないかと確信を持ち始めました。よし、まずは西洋美術史を学んでみようじゃないかと。

かくして私は西洋美術史の教科書を読み始めたのですが、驚いたことに、いつ本を開いても1ページ〜5ページあたりを読んでいるのです。全く頭に入ってこない。なぜなら私は座学が苦手だから。

なんというか座学にはいつも、「自分のモノにできない」という悩みがつきまといます。とはいえゴロで覚えるとか受験生みたいなことはもうやりたくない。美術史を本当の意味でモノにして、もっと絵画鑑賞が楽しめるようになりたい…自分の創作活動に生かしたい…!!

物事を覚える基本は、インプットの後のアウトプット。ということで、他人様にも説明できるように、noteでまとめることにしました。

※知識ゼロからの素人が、限られた参考文献をもとに作成する記事です。個人の推測も含まれますのでその前提でお読みください。明らかな誤りがあった場合はご指摘頂けますと幸いです。

原始美術

世界で発掘されている美術作品で今のところ最も古いのは、洞窟壁画

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スペインの洞窟で発見されたこちら。6万4000年以上前のものと推定されているとか・・!
分かりづらいけど、真ん中らへんに梯子のような線画が確認できる。その周りには動物や謎のシンボルの絵が見られるようだ。
これを描いたのは、現生人類ではないらしい。ネアンデルタール人の可能性が高いですって。目で見たものをアウトプットする、っていう知能があったんだね!?

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こちらもスペインの、アルタミラの洞窟絵(紀元前3万5000年-前1万1000年)。

ここには旧石器時代に我々人類の祖先が描いた動物の絵があるが、これは狩猟に関わる祈りを込めた一種の呪術だったと言われている。(中略)絵は鉄酸化物を含んだ泥から作った顔料の赤、褐色、黄、白などを使い、隈取りなどを施して浮き出して見えるように描いている。はじめは指で描いたが、やがて草を束ねたりした原始的な用具を用いて、牛、馬、マンモス、鹿などが躍動感をともない実に活き活きと描かれているのである。
(堀内貞明、永井研治、重政啓治『絵画空間を考える』より)

「祈り」かぁ。こんなに遥か昔から人間には祈る習慣があったのかな。「は〜、今日も不作だった。明日こそ美味いマンモス狩れますよ〜に!」みたいな感じ?祈りという行為そのものも面白いけど、それを絵に描くという、祈りとアートの関連性もまた面白い。「心の中で思うだけじゃなく、目に見える形にしたほうが神様に伝わる」みたいな思いが根幹にあるわけだよね。それは現代の自分たちも不自然なく受け入れられる行動だけど、俯瞰して考えてみると不思議。

文明の発祥

美術史がぐっと動きを見せるのが文明の誕生から。

世界最古の文明…とかって言葉としてはよく聞くけど、「そもそも文明って何じゃい」という疑問で早速躓いてしまったので、辞書を引いてみる。

文字をもち、交通網が発達し、都市化がすすみ、国家的政治体制のもとで経済状態・技術水準などが高度化した文化をさす。
(三省堂 大辞林 第三版より)

なるほど。ただの文化ではなく、「都市」「国家」というところがキーワードになる気がする。
ちなみに、どこからが「都市」っていえるの?というと・・・

都市:人口密度や家屋の密度が大きく、第二次・第三次産業に従事する人の割合が高いもの。
村落:人口密度や家屋の密度が小さく、第一次産業に従事する人の割合が高いもの。(≒集落)
(Wikipediaより)

簡単に言うと産業間の取引がなくて、狩猟や農耕をやってる人ばかりの集まりは都市ではない、ってイメージかな?面白い!

というわけで、世界で最初に「都市国家」といえるような体制のもとで文化が発達したのがメソポタミア、そしてエジプトの地だったということですね。紀元前3100-前3000年頃のことです。

地理に滅法弱い私。メソポタミアとエジプトの場所、おさらい。

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そうそう、文明は川の近くにできるだった。メソポタミアはティグリス川とユーフラテス川の間。エジプトはナイル川。

上の地図で色が付いている地域全体(小アジア、メソポタミア、エジプト)は、古代オリエント世界とよばれた。

メソポタミア美術

世界最古の文明と言われることの多いメソポタミア文明。メソポタミア南部(現在のイラク・クウェート)のシュメール最初に「文字」が発明された地というのも、最古と言われる大きな所以だろう。文字は、穀物や奴隷・家畜の量を数えたり、土地面積を計算したりと、行政・経済上の記録に用いられたという。文明のキーワードである国家的政治体制を築くためには人の記憶や伝書鳩だけでは限界がある。だから必要に迫られて文字を作った、ということだったんじゃないだろうか。

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※でも、ネットでは「世界最古の文明は日本だ」という主張もちらほら見られる。結局、明確に線引きがあるわけではないから、意見が分かれるのでしょうか。

メソポタミア文明は南北に分けることができる。こちらの年表をもとに順を追って説明していきたい。

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●メソポタミア南部

まず最初に文明が栄えたのが先述の通り南部で、シュメール人は文字を駆使しつつ、集落の規模を拡大して南部にウルウルクラガシュなどの都市を形成した。

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メソポタミア地方は肥沃な三日月地帯という言葉が有名で、とにかく土地が肥えてて豊作だったのだけど、良質な石材には恵まれなかったという。だから建築については、エジプトのピラミッドみたいに完璧な形で残っているものが殆ど無いんだって・・

でも安心して(?)。彫刻は、ぎょうさん出土してます!

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これは前2700-前2350年頃の、礼拝者像と呼ばれるもの。

まあ、正直言って怖い。申し訳ないが、これを自分の部屋に置いて眠るのはかなり勇気が要る。

シュメールの神殿は誰にでも開かれていたわけではなかった。初期王朝時代に礼拝者像が発達したのはこのためである。神像の祀られている至聖所の中に礼拝者の身代わりとして石灰岩、石膏、テラコッタなどの彫像が神に捧げられたが、通常それらの両手は腰の高さで前に組まれている。これは祈り、すなわち神への語りかけの姿勢であった。このような像を奉納することにより、奉納者はそこに居なくてもその魂は永遠に神の御前にあったのである。神に語りかける彼らの表情は時に生真面目であり、時に最高のほほえみを示している。
MIHO MUSEUM Webサイトより)

あ、家に置くわけではないのね・・よかった。
自分は神殿に入れるような身分ではない、でも常に神とお近づきになっていたいから、身代わりとして像を作ったということか。なんて器用な。

この像の素材は石膏石(きめが細かくてなめらかな石)なんだけど、眼の部分だけは違って、白目には貝、黒目がラピスラズリとかの天然石が施されている。

いや、こんなに目ひんむかれて祈られたら、神様も「ちょ、分かった、話だけは聞いてやるから」ってなるかもしれない。それくらいの迫真っぷり。ここでもやっぱり、生きるうえでの「祈り」の大事さが伝わってくる。

しかしこのウル、ウルク、ラガシュといった都市国家は、日々の祈りも空しく、国家間の戦争が絶えずだんだんと衰退していく。

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これは前2600年頃、まだシュメール人の黄金時代に製作されたと思われる工芸品。横長の箱で、大きい面の片方は「戦争の場面」、もう片方が「平和の場面」とされる。上の画像は「戦争の場面」。古代戦車や槍を持った兵士が描かれている。この箱の用途は明らかにされていないけど、こんなに戦争らしい戦争がこの時代に既に存在していたことがまざまざと伝わる。4500年以上前から。戦争が身近なものになると同時に「平和って素晴らしいことなんだ」と気付いて、対比で描いたのだろうか。皮肉だけれど。

やがて前2334年にもう少し北の方の都市アッカドで新たな王が生まれ、アッカド帝国となる。このアッカド王朝の権力は一時期メソポタミア南部だけでなく北部までも広がり、シュメール人も成し遂げなかったメソポタミア統一をした王朝でもある。だけど前2154年、政治の弱体化とか干ばつとか色々あって、200年弱の歴史に幕を閉じ衰退する。

アッカド人の時代が終わり、また頑張り出したのがシュメール人。さすが元祖!ウル・ナンムという人物が王朝を作る。この時代の功績は、(現存する)世界最古の法典―ウル・ナンム法典ができたこと。法統制が始まると、いよいよ国家っぽいな~。
でも100年くらいで侵略され滅ぼされる。元祖、無念。

次に栄えたのがバビロニア。ここで先ほどの地図をもう一度。

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緑の枠で囲まれてるのが古バビロニアの領域。シュメールやアッカドの時代に比べてパワーアップぶりがすごい。どこにそんな力を隠し持ってたんや。
古バビロニアで特に有名な王といえば、ハンムラビ法典のハンムラビ王。「目には目を、歯には歯を」ってやつ。この条文、単純に「やられたらやり返す」っていう解釈をしている人が多いと思うけど、Wikipedia様によるとですね、

倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」すなわち、あらかじめ犯罪に対応する刑罰の限界を定めることがこの条文の本来の趣旨であり、・・・
(Wikipediaより)

半〇直樹めっちゃ否定されてる。報復合戦の拡大を防ぐっていうのが、平和への渇望を感じさせるね。

もはや美術史関係なくなってきたのでこの辺でやめよう。でも面白い。

古バビロニアは外から色んな民族が入ってきては覇権を持つということを繰り返す興亡の時代なんだけども、メソポタミア北部でブイブイ言わせていたアッシリア帝国の王権が南にまで急拡大してきて、占領される。ということで、ようやく北部の話に入ります。

●メソポタミア北部

北部・アッシリアの歴史は、南でシュメール人が活躍していた紀元前2000年頃までは史料が殆どなく、詳しく分からないという。ただ先に書いた通り、シュメールの後のアッカド帝国がメソポタミアを統一したので、一旦アッカド帝国の覇権下に置かれたということになる。その後アッカドや古バビロニアの勢力が弱まるにつれ、改めてアッシリア独自の文化や政治体制が敷かれていったようだ。

アッシリア帝国が南部の方にまで王権を急拡大したのは、前900年ごろのこと。というかメソポタミア南部だけではなくて、四方に軍を擁して遠征し、シリアやエジプトの方にまで征服の手を広げている。そうして前700年ごろには、オリエント世界が始めて統一された。

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王はあまりに偉くなっちゃうもんだから、ガハガハ言いながら(←想像)首都ニネヴェやニムルド(上の地図ではカラク)などに豪華絢爛な宮殿を建設。その建築の一部として、巨象浮き彫りが発達した。

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これは人面右翼の牡牛像。城門の左右に設置されており、ちょうど日本の狛犬のように、入口を守護する役割があったそうだ。こういう、半人半獣みたいな形態になるのは、やっぱり人知を超える存在畏怖みたいなものが込められているのか。

そしてよく見るとこの像・・・脚が5本ある!横から見ても前から見ても4本の脚がはっきり見えるようにしたかったらしい。「え、なんか横から見たら脚2本しかなくない!?変じゃない?弱々しくない?」って思っちゃったんかな。かわいい。

それから宮殿の内外の壁は、浮き彫り(レリーフ)で装飾されていた。

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モチーフはやっぱり戦争が多かったようだ。中には戦利品や切り首の数を記録している書記官の姿が見られるものがあるという。人類史上類を見ない領土の拡大をやってのけた自分たちの栄光を、存分に称えたかったのだろう。

しかし、前609年、オリエント統一から100年経たずにアッシリアは崩壊する。支配下に入れた民族に対し、重税や強制移住などの恐怖政治を敷いていたからだ。やりすぎちゃったね。
アッシリア崩壊後、一旦帝国は4つに分かれます。イラン高原のメディア、小アジアのリディア、エジプト第26王朝、そしてメソポタミアは新バビロニアへ。

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バビロニア、国を奪還できてよかったね!と思ったのも束の間、前593年にイラン高原に新たに起こった部族が、まずイランの地を治めていたメディアを倒し、そしてバビロニア、リディア、エジプトもあっけらかんと倒し、前550年、再びオリエント全域を支配―アケメネス朝ペルシアを建設する。

ペルシア帝国の拡大をはかって造営事業が積極的に行われた。こちらは帝都ペルセポリスの王宮の遺構。

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柱しか残っていないけど、壁はもちろん浮き彫り(レリーフ)でたんまり飾られたのだろう。

アケメネス朝ペルシアは、前330年までの220年間続きます。アッシリアは100年もたなかったから・・・アッシリアよりも諸民族の伝統や文化に寛容だった、と考えられているそう。

それ以降、舞台はもはやメソポタミアだけではなくオリエント世界全体を前提としながら、王朝が変遷してゆきます。一旦メソポタミアの話はここで終わり~。

▼年表で振り返り

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興亡を繰り返したメソポタミア美術は、戦争とは切っても切り離せず、どちらかというと力強く、時に恐さも感じさせるものでした。

次回は、メソポタミアと同時期から栄えたエジプトの文明、美術を見ていきます!

*参考にさせて頂いた文献
・中村るい、黒岩三恵他『西洋美術史』(武蔵野美術大学出版局)
・堀内貞明、永井研治、重政啓治『絵画空間を考える』(武蔵野美術大学出版局)
・池上英洋 、 川口清香、荒井咲紀『いちばん親切な西洋美術史』(新星出版社)
・池上英洋『西洋美術史入門』(ちくまプリマー新書)
・木村泰司『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』ダイヤモンド社
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