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年賀状的 弱い紐帯性の確認

僕は、現在32歳である。

そして、今年33歳を迎える。

この歳にもなると、学生時代の友人とも疎遠になり、集まる機会も少なくなるのだが、ましてや連絡を取り合うことさえも皆無になるのである。

「この歳にもなると...」と世間一般的なことのように述べてしまったが、もしかすると、これは「私」だけに起きている現象なのかもしれない。

振り返ってみると、僕が一番広い交流関係を持っていたのは、大学生のときである。

・学部の友人
・塾バイトの同僚
・ドルヲタ仲間

という主に3つのコミュニティに属していたのだが、その交友人数は優に100人を超えていたと思われ、ドルヲタ仲間に関しては年齢層も様々で、飛級的に社会との関わりを持てている感覚もあり、非常に刺激的だった記憶がある。

そんなコミュニティも就職という人生フェーズの転換点とともに、仕事中心に代替され始め、その交流量も経時的に半ば自然消滅のような形で減衰していったように感じる。

そんなことは、僕のような一般人が言うまでもなく、琵琶法師が語るように「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」であるのだが、その当時との落差のようなものが「私」だけの現象と錯覚させてしまうのかもしれない。

遠い昔に読んだ本のなかで、ライフネット生命創業者の出口治明氏が人生を豊かにするキーワードとして「人・本・旅」を挙げていた記憶がある。

その当時受けた影響が自分のなかで無意識的に働いて、今の僕になったのかもしれないが、まさに僕は「人・本・旅」を大切にしようとしている。

本については、確か中学生の時に治左衛門という書店でたまたま手にした「ドラゴンライダーシリーズ」というファンタジー小説がきっかけで好きになり、読書の素養ができあがった気がしている。

旅については、一昨年あたりから「海外一人旅」というワードに対し何故だか興味が芽生え、昨年労働雇用契約の抹消と引き換えに始めた。

人については、元々人から盛んに嫌われるような質ではないので、自ら減らしていったわけではないのだが、冒頭に述べた通りの現実である。月日の流れとともに、交友関係もアップデートされていくが、自ら作ろうとしなければそれも叶わない。

他人の言葉を借りるようで恐縮だが、とどのつまり「会いたい人に会いにいく」がこれから何よりも大切にしたい姿勢だと僕は感じている。

何故そのように感じるかについては、これだけインターネット網が張り巡らされたデータ社会のなかでさえ、人々に支持されているものの共通項は何かと探し出すと、結局はデータの中に人間味を感じるか否かという仮説が僕の中で浮かび上がり、僕は人間に興味を持っているのだと気づいたからである。

ここでいう人間味というのは、情緒的な部分も含めた人間から感じとれる情報全般をイメージしているが、かいつまんで纏めると「あの人/その人だから」というところに帰結している気がする。

では、どうすればデータの中に人間味を忍ばせられるかについて考えてみると、「誰かに支持されたいがために」という目的的かつ承認欲求的な理由ではなく、老子の説く「道」や「無為自然」のようなニュアンスで、自分の気持ちに素直なままに従う感じで、気づいたら混ざってしまっていたというような事後感が重要ではないかと思うのである。

つまり、「会いたい人に会いにいく」は、「気づいたら会いに行ってしまっていた」という無意識的に惹かれる感覚に行き着くのではないかと派生したのである。

そのような自分でも訳の分からぬことを考えていた矢先、母親が年賀状じまいについて愚痴を漏らしていたのを小耳に挟んだ。

「年賀状じまいにするのは勝手やけど、代わりに正月から LINE で一通一通返信するのも邪魔くさいなぁ」

確かにごもっともな意見である。

そこから年賀状のメリットを考えると、年賀状は LINE と相対化すると、相手側から送られてきても、送り返すか否かが切迫していない雰囲気がある。送り返してもいいし、送り返さなくてもいい。また、モノとして形で受け取れるし、筆跡とメッセージという人の手ぐせを感じられるのも良い。

ただし、年賀状の場合、年を重ねるごとに毎年の慣習となってしまうので、その辺が面倒くさいと言えば面倒くさいというのが世間の近年の流れなのだろうと推察する。

そこで、クレイジーな行動を突然起こすことが得意な僕は、5年ほど音信不通の友人に先日 LINE で連絡を取ってみた。

すると、返信はあるのだが、LINE の場合、通知→既読→返信→通知→...という動作が切断されながらやりとりが行われるので、手間な部分が圧倒してしまい、全く当たり障りのない表面的な話に終始してしまったのである。

そのように考えると、「ここぞ!」と思った時に手紙なんかを突発的に送った方が効果があるのではないかとも思ったのだが、それはそれで気持ち悪さの部分が多くてドン引きされそうであるし、弱い紐帯としての年賀状は、案外丁度良い存在なのではないかと思い直したのである。

いずれにせよ、過ぎ去ってしまった縁を可逆的に戻そうとするのは、無理があるのかもしれない。

そうなる前に、人との縁は能動的になんとかしたいものである。

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