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自己紹介|Soysauceman 半生を振り返る

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note を始めてから 6ヶ月が経ったところで今更ではあるが、自己紹介と題して何か書いてみようと思う。

そもそも note を始めた当初は、自分の記録や思考の整理としてまとめていたのだが、ありがたいことに少しずつ読者の数が増えてきており、Soysauceman の為人を知ってもらおうと思ったのが本記事のきっかけである。

また、自分の人生の振り返りとしても、記憶に強く残っているものを書き起こしてみたいと思う。

Soysauceman の由来

はじめに Soysauceman という呼称であるが、矢沢永吉が自分のことを「YAZAWA」と呼ぶ感覚に似ている。

極めてダサい名前であるが、そのルーツは大学生の時に「チームしゃちほこ」というアイドルグループを追っかけていた際に、当時メンバーだった伊藤千由李ちゃんが僕の下の名前をもじって「しょうゆくん」と命名してくれたことに端を発する。

それからというもの、その界隈では「しょうゆくん」と呼ばれていたのだが、いつまでも「しょうゆ」を名乗るのもアレなので、英語に変換したというのが事の経緯である。

幼少期から小学生 編

僕は1992年に大阪で生を受ける。

親の事情は詳しく知らないが、母親の親戚の家系に父と母が養子として入る形だったようで、僕の現在の苗字は父親の前の苗字とも母親の前の苗字とも異なるという珍しい家系状況である。

父は昔、釣りサンデーという雑誌を作っていた会社で働いていたと聞いたことがあるが、その会社が倒産してしまったため、趣味でやっていたゴルフを生かして個人ゴルフショップを開業する。

また、父の父親(祖父)もゴルフが趣味だったことから、父と祖父の影響で僕は4歳からゴルフを始めることになる。

父と母が養子に入った恩恵として、親戚の家にはちょっとした庭があった。父はその一面に芝生を敷き詰め、短く刈った芝生部分に穴を掘り、カップを埋め込んで、練習場を自宅に作ってしまった。

僕はその恵まれた環境を生かし、毎日庭でプラスチックのボールを打ち込む。そして、週末には大好きな祖父に打ちっぱなしに連れて行ってもらい、ここから僕はゴルフというスポーツにのめり込んでいくことになった。

このカラフルなボールが大好きだった

画像参照:https://item.rakuten.co.jp/taruba-0831/yz6229/

打ちっぱなしに行くと、手前味噌だが「ちびっ子ゴルファーがすごい球を飛ばしている!」と毎回周りに見物客が集まってしまうほどの腕前で、僕はその状況にまんざらでもなく嬉しかったのを強く覚えている。

祖父は、僕をどこにでも連れて行ってくれた。中でも印象に強いのは、枚方カントリーゴルフ・アベニューのショートコースである。

ここの1番ホールは名物ホールで、たった113ヤードしかないのだが、大きな池を越えないといけないのが小学生の僕には難関だった。僕はドライバーを持ち、持てる力を全てボールに込めてフルスイングするのだが、記憶では1回だけしか越えることができなかったように思う。また、いつか行きたい。

ちなみに大好きだったゴルフではあるが、僕が小学生5年生の時に祖父が亡くなり、中学校に入ると突如として家計が極貧になってしまったため、自然消滅する形でやめてしまった。

ゴルフ・アベニュー ショートコース 1番ホール

画像参照:http://blog.livedoor.jp/red_isle-2016gh/archives/17762859.html

小学6年生の時には、初めて父親に京都競馬場に連れて行ってもらったことがある。あれは忘れもしない夏の函館開催があった日だった。なぜ函館開催か覚えているかというと、函館開催はファンファーレが他開催とは異なり、僕にとっては特徴的で印象的だったからである。

函館1レースで「ロゼッタストーン」という馬と「クラウンロゼ」という馬がいたのを覚えている。当時、父親は独自の予想方法を編み出し、馬名に同じカタカナがある馬は来やすいと僕に力説していた。上の例で言うと、「ロゼ」というカタカナが仲間になる。

僕はこの「ロゼ」を見つけ出し、父親に報告すると「でかした!」と褒められた覚えがある。レースが始まってみると、この馬は全然人気がなかったにも関わらず、1着か2着に入線し、父はあっさり万馬券を獲得してしまった。

そこからというもの、僕は父親のアシスタントとして中学3年生の受験を迎えるまで、ほぼ毎週土日を父と競馬場に出かけるという今思えばクレイジーな週末を過ごすことになる。

今現在、京都競馬場は綺麗に改修されてしまったのだが、僕が馴染み深いのは汚かった京都競馬場であり、いつも決まった無料席に陣取ったおっさんおばはん集団であり、いつも優しくしてくれた弁当屋のおばちゃんである。チッチキチ〜で有名な「大木こだまひびき」の大木こだま師匠にも握手してもらったこともある。

そんな僕と父の関係は、時に親子、時に師弟にもなるという面白い関係性だった。

毎週金曜日の晩になると、父が競馬新聞を買ってくるので、僕は父が確認した後に馬名の仲間を全レース全馬確認する。

当日は、絶対信じてはいけないであろう予想屋からのデータを家のパソコンから印刷し、全レース情報をホッチキスで留めていき、カバンにしたためる。

そして、お金がないにも関わらずローンで購入したであろうベンツ Cクラスの助手席に座り、朝マックをドライブインで購入し車内で食べる。車内では「K-Ci & JoJo」や「Boyz II Men」「Babyface」などの洋楽が爆音でかかっている。

全く些細な思い出ではないが、そこにはあの時の日常が確かにあった気がする。

中学生から高校生 編

中学生になると、思春期を迎えたせいか、別の小学校から来た生徒との関係性にナイーブになり、とてつもなく神経質になっていく。それが原因か分からないが、胃腸が弱くなってしまい、当時はまだ誰も知らなかった過敏性腸症候群と診断されてしまう。

過敏性腸症候群と診断されるくらいなので、性格は物静かで、当時出て来た言葉でいうところの僕は「陰キャラ」で間違いなかったと思う。

それにも関わらず部活動は、小学生の時から友人と公園で遊んでいた野球を選択した。

晴れて野球部に入部できたのはいいが、結局3年間でベンチに入ることすら一度もなく、ベンチ外応援部員だったにも関わらず、辞めずに続けてしまったのは何だったんだろうか。

そんな中学生の時くらいから、家計は火の車になり始める。父は、返済に充てるべきお金を競馬に注ぎ込んでしまい、借金の返済が滞っていく。一方、母はというと、そんな大人にはなってほしくないと思ったのか、何とかお金を工面して僕を学習塾に通わせてくれた。僕は、その母の期待に応えるべく勉強第一主義を掲げ、何とか学費の安い公立高校への進学を果たす。

高校生になると、野球とは決別し、ひょんなことから器械体操部に入部することになる。入部のきっかけは、たまたま見学に来ていた学生全員が同じ中学校出身だったことである。当時あまり面識はなかったのだが、それを契機に仲良くなり、5人全員が入部することになった。

器械体操部は全員初心者からのスタートだったため、僕はすぐにレギュラーになってしまった。そして、部員数も少ないため、自ずと床・鞍馬・跳馬・吊り輪・平行棒・鉄棒の全種目をやることになる。僕は、足腰の力が弱かったので床や跳馬が苦手で、逆に腕の力を使う吊り輪や平行棒が得意だった。

ここでは書けない大変なことも色々あった器械体操部を最後まで続けて引退し、再び受験シーズンが訪れる。相変わらず、家計は火の車だったので、僕は国公立大学一本に絞り勉強を開始する。その後、猛勉強の末、自分の力を出し切ったのだが、合格まであと5点足らず、現役での大学進学は叶わなかったのだった。

今思えば、これが人生最初の挫折と言える出来事だったかもしれない。当時の僕は、年齢というものに固執しており、同い歳の同級生から遅れをとった焦りを感じていた気がする。

また、あの時は忘れもしない2011年の出来事だった。3月9日に不合格が判明し、現実に打ちひしがれている最中、3月11日の東日本大震災が発生する。僕は何となく情報ライブ ミヤネ屋を見ていると、テレビのスタジオが揺れ始め、津波の映像が流し出され、福島第一原発が爆発し、公共広告機構の「エーシー!」という気持ち悪い CM が無限ループされ、頭がおかしくなりそうだったことを鮮明に覚えている。

そこからというもの、我が家には予備校に通わせてもらえるお金がないことは分かっていたので、1年間自宅浪人することを自ら申し出る。この時の僕は、何かを覚悟したような記憶があって、日々の勉強スケジュールを自己流で計画し、毎日10時間は勉強していたように思う。

この自宅浪人生活であるが、最初の方はまだ気持ちに余裕があったのだが、いよいよ受験間近になってくると軽い鬱状態になってしまい、ちょっとやそっとでは笑わない男になってしまった。なので、自宅浪人は個人的にはお勧めしない。

そして、再び大学受験の日を迎え、無事に第一志望の公立大学に合格するのだが、1年間猛勉強したにも関わらず、下から数えた方が早いギリギリでの合格だったので、僕は肝を冷やしたのだった。

大学生から大学院生 編

大学は、大阪府内にキャンパスがあった。しかし、自宅から1時間半かかるくらい離れていたので、地味に毎日通うのがしんどかった。結局、そのまま同じ大学の大学院(修士課程)まで進学したので、6年通ったことになるのだが。

学部は昔でいうところの農学部で、その大学では学生受けのいい名前にしたかったのか、生命環境科学域という部でさえもない名前だった。(←この名前で大学は分かってしまうが...)

学域内の人数は100人くらいいたと思うが、浪人して入学している学生も結構いて、年齢のギャップはそんなに気にならなかった。また、高校生からの地味性は相変わらずだったのだが、なぜか学域内では顔が広いという現象が起きてしまい、それもあって楽しく生活できた覚えがある。

部活動は、ほぼ同好会化していて自由そうだったので、ゴルフ部に入った。部活動といっても週2〜3日の頻度で近所の打ちっぱなしに練習しに行くくらいで、非常に融通が効いたのが好都合だった。

時々、他校との交流や合宿などもあって楽しかった思い出もあるが、大学4年時に研究室が忙しいという理由で幽霊部員となり、そのまま足が遠のいていった。ちなみに、この時幼少期の感覚を取り戻し、ベストスコアは80まで伸ばすことができた。(←ゴルフ部にしては大したスコアではないが...)

冒頭でも述べた通り、僕はチームしゃちほこというアイドルグループを追っかけていた。元々は、ももいろクローバーZのライブビューイングを先輩に連れられて観に行ったことがアイドルにハマるきっかけだったのだが、大学で勉強するか、塾講師としてアルバイトするか、たまにゴルフ部に行くかの3択しかなかった僕にとっては、唯一の趣味になった。

そのハマりっぷりは周りの友人も驚くほどで、整理券を取るために授業を抜け出したり、週末は夜行バスで東京に行ったり、九州に行ったり、近鉄の鈍行列車で名古屋まで行ったり、時には徹夜で並んだりとスケジュールがめちゃくちゃだった。その末期には、中国の大連まで遠征するという始末だった。

この時の出来事で印象深いのは、ツイッターを通して、色々な人と知り合いになれたことが最も大きい。チームしゃちほこのファン自体がそこまで多くなかったので、いつも現場に行くと誰かしら知り合いがいるという状態で、大学生でありながら複数のコミュニティを持っていたというのがより趣味を加速させた要因な気がする。

しかし、やはりゴルフと同様で大学4年生時に研究室が忙しくなったため、アイドルの現場からも足が遠のいてしまうのだが、土日は流石に研究室も休みだったので、大学院1年生の後半までチームしゃちほこを応援することになった。

研究室での僕のテーマの詳細は伏せるが、ケミカルバイオロジーと呼ばれる分野で、核酸やタンパク質などの生体高分子と特異的に作用するバイオプローブを合成し、それら生体高分子の機能の解明を目指すという研究だった。したがって、有機化合物の合成から SDS-PAGE などの生化学的な手法まで幅広くやった覚えがある。

研究自体は残念ながら3年間全く上手くいかず、これが人生2度目の挫折だったかもしれない。ただし、この時上手くいかないなりに、その原因を探り別の仮説を立て、再び次の実験に着手するというサイクルは、今の僕の身になっている実感がある。

社会人 編

大学院を卒業後、僕は木材関連の会社に就職し、静岡県の清水区という場所で一人暮らしを始める。

正直なところ、なぜ木材関連の会社に就職してしまったのか未だに謎なのだが、僕はご縁に流されやすい性格で、たまたま面接を希望した会社の子会社にも応募してみたら、良さそうな雰囲気だったので、そのまま就職したという感じである。

僕が静岡に住んでよかったなと思うのは、趣味が増えたことである。

静岡県には「サウナしきじ」と呼ばれるサウナの聖地がある。僕が初めてサウナに行ったのが2018年だったので、それはちょうどサウナブームが来始めた頃だった。

おそらく、僕がサウナにハマった理由として、初めてのサウナが「しきじ」だったからで間違いない。

「しきじ」にはフィンランドサウナと薬草サウナがあり、フィンランドサウナも勿論クオリティが高いのだが、特に薬草サウナは熱すぎてダッシュで外に飛び出さなければならないくらい温度が熱く、薬草の香りも癖になるくらい素晴らしい。

そして、水風呂が他のサウナ施設と比べ物にならないくらい違う。「しきじ」では駿河の天然の湧水を使用しており、水風呂に入った時の肌へのまとわり方や休憩時のととのい方が異次元に気持ち良い。

そんな感動的な初体験をしてしまったので、サウナがこんなに良いものなんだとハマってしまったという経緯である。

もうひとつは、古着である。当時、アニ散歩という Youtube 番組を見ていたのだが、それをきっかけに静岡にも古着の名店がたくさんあることを知り、色々なお店に通ううちにハマってしまった。

特にお世話になったのが、Berberjin Shizuoka で価格帯が低めということもあり、古着初心者には大変勉強になるお店だった。

僕の静岡時代のもうひとつの楽しみは、1人での外食だった。
今も続けているか不明だが、桜橋駅の近くにある「ベターハーフ」というお店が僕の行きつけだった。

このお店は、ご夫婦で経営されている洋食屋さんで、味が絶品なので何度も足を運んだ。「ベターハーフ」という名前にも関わらず、気難しい旦那さんの段取りと奥さんの段取りが合わなかった時は厨房で揉めているのだが、その姿が何ともほほえましかった。

僕が何度も足を運んだため、次第に顔を認知され、「かっこいい服ですね」とか「本お好きなんですね」とか色々話したことを覚えている。

僕の中では、こういう些細な日常の記憶が財産となっている。

結局、静岡には3年半住んでいたが、その後大阪に転勤することになり、2年半ほど吹田市で一人暮らしをする。

前の会社には色々とお世話になったのだが、2024年3月を持って退職し、現在キャリアブレイクをしている。

とりとめのない内容になってしまったが、今後とも宜しくお願い申し上げます。ということで本論を締めさせていただく。

FIN.

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