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やや退屈に感じるが、飽きることがなく、余計な飾りや虚栄心がない音楽
シューベルトのイメージが変わった。
そのきっかけは、図書館でなにげなく手に取った村上春樹の音楽評論集『意味がなければスイングはない』 (文春文庫)
オーディオ専門誌『Stereo Sound』で連載されていたものをまとめたものらしい。村上春樹にジャズのイメージはあったが、クラシックもロックもJ- POPも取り上げられていて、守備範囲ひろっ!というのが第一印象。さすがのハルキ節がいたるところに。傍線を引きたいところがたくさんあったが、今回はシューベルトのところをいくつか引用。
シューベルト「ピアノソナタ 第17番 ニ長調」D850
彼はただ単純に「そういうものが書きたかったから」書いたのだ。お金のためでもないし、名誉のためでもない。頭に浮かんでくる楽想を、彼はただそのまま楽譜に写していっただけのことなのだ。 (略) 彼は心に溜まってくるものを、ただ自然に、個人的な柄杓で汲み出していただけなのだ。 そして音楽を書きたいように書きまくって、三十一歳で彼は消え入るように死んでしまった。
奥深い精神の率直なほとばしりがある。そのほとばしりが、作者にもうまく制御できないまま、パイプの漏水のようにあちこちで勝手に噴出し、ソナタというシステムの統合性を崩してしまっているわけだ。しかし逆説的に言えば、ニ長調のソナタはまさにそのような身も世もない崩れ方によって、世界の「裏を叩きまくる」ような、独自の普遍性を獲得しているような気がする。
僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。だからこそおそらく僕らは恋をするのだし、ときとして、まるで恋をするように音楽を聴くのだ。
あとでWikipediaをみて知ったのだが「海辺のカフカ」にはこんなセリフがあるらしい。読んだはずなんだけど、まったく覚えてなかったなー。
「シューベルトというのは、僕に言わせれば、ものごとのありかたに挑んで敗れるための音楽なんだ。それがロマンティシズムの本質であり、シューベルトの音楽はそういう意味においてロマンティシズムの精華なんだ」
「どう、退屈な音楽だろう?」
「今にきっとわかるようになる。この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。たいていの人はそのふたつを区別することができない」