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小説『水蜜桃の涙』

「第8章 伊ケ谷邸での合議」

この章の登場人物:
成沢清之助・・・・・高等師範学校の最終学年に通う都会育ちの青年
谷口 倖造・・・・・高等師範学校の教授
伊ケ谷 治平・・・・村の名主
石田 律・・・・・・清之助の同級生・石田英二の従妹で、女子高等師範学
          校の学生 
桜井 たえ・・・・・石田律の同志で、東京の私立高等女学校の教師
中本・・・・・・・・村長

年が明けて小正月も明けた寒さも厳しい中、再び谷口教授の帰郷に同行したのは自ら申し出た僕と石田律さん、そして律さんの同志である私立の高等女学校の教師・桜井たえさんであった。

桜井たえさんはキリスト教系の私立女学校の出身で、そこで西欧での女性の立場のあり方を知ったらしい。
また貧しい子どもたちを西欧ではどう保護しているかなどのことも学んだようで、日本での女性・児童への福祉対応が遅れていることを改善しなければいけないということを切実に感じ、このことを賛同してくれる女子たちと日々勉強会を重ねているとのことである。

それだから石田律さんから桜井さんを紹介された時、僕は世間知らずを痛感させられた。
律さんも桜井さんも表情や態度が自信に満ち溢れ、立ち居振る舞いも凛として清々しい。
さすが信念のある人は、それが女性だろうと年下だろうと関係なく立派なのだ。それなのに男は旧態依然として、既成概念に囚われすぎているような気がするのは自分だけだろうか。

学びは非常に大事だ。見聞を広めてくれる。
輝子ももっと教育を受ければ、きっと優秀な能力を発揮するかもしれない。一度しか会ったことがないのにそのような気がするし、きっとその印象は外れてはいないとなぜか確信できるのだ。

谷口教授は初め僕といっしょに現れた女性二人に驚いた様子だった。
世間の目を気にして、女性と連れ立つことや活動家とともに帰郷することを非難されるかもしれないと考えられたようだ。特に田舎の方面へ行くのだから、そのような心配も無理はない。
しかし地元で一人の少女が軟禁されるなどという事件が起こっているのだ。むしろそちらを心配すべきであろう。

久しぶりに訪れた村は、夏に来た時とは当然のごとく風景が違っていた。
いつになく寒い冬が東京でも感じられたが、ここもそれは同じらしく積雪もわずかに見受けられる。
葉を落とした山々はその生命力にあふれていた夏の姿をすっかり潜めて静まり返っており、まだ遠い春をひっそりと待っているようだ。
何もつけてはいない枝があちこちに伸びている林は確か、前回来た夏にその葉陰がありがたかったが、今は寂しげな峠をますます色のないものにしている。そこに一羽のルリビタキがヒーッと鳴きながら止まり、その美しさを際立たせていた。
ああ、輝子は今頃どうしているだろう、無事だろうかと彼女をつい思い起こさせるような目にも鮮やかな美しい鳥である。

夏には夏の、冬には冬の美しさがある自然豊かなこの村を、教授は誇りに思っていたのだ。
それなのに思いもよらない重大事件が起こってしまうとは、教授もさぞや心を痛めておられることであろう。

輝子の身の安全を確保することはもちろん、教授の憂い事もこの訪問で払しょくされればよいのだが。

いよいよ村へ着き、まずは村役場の村長室に挨拶に向かった。
中本村長はすでに教授から帰郷する旨をあらかじめ知らされていたので、快く迎え入れてくださったが、ともに女性が二人ついてきていることには面食らったようだ。

「これはこれは、ご婦人方もごいっしょにおいでですか。いったいどういった方々で?」

「ああ、実は私も今朝初めてお会いしました。東京の私立の高等女学校の教師をされておる桜井たえ女史に、こちらは私の別の教え子の石田という学生の従妹さんで石田律さんとおっしゃるそうです。お二人は考えを同じくするお仲間だということでして。成沢も女性が一緒の方が何かと心強いと申すものですから、まあ今回場合が場合ですから、私もお願いしたということです」

まあ、ざっくりと説明すればその通りである。ここで女性解放の活動のことを明らかにすれば、保守的な村長は一気に輝子の面会の協力を拒むかもしれないから、慎重に話すべきなのだ。

「ああ、確かにそうですわ。今回は女性がいてくださった方が良いかもしれませんなあ。ま、よろしく頼みますよ」
なんとかここは村長もすんなりと受け入れてくれたようだ。まだ幼い女子が乱暴され軟禁状態だというのは村始まっての事件であるし、男としては難しい対応を迫られる。
村長も内心、安心しているのではないだろうか。

とりあえず村長との打ち合わせが終わり、いよいよ伊ケ谷邸へと一行は向かった。
みんな、さすがにやや緊張した面持ちであった。
伊ケ谷氏はどういう態度に出るだろうか?
宗一郎君はその後どうなっているのだろうか?
一番心配なのはもちろん輝子のことだ。
体は大丈夫だろうか?

僕は輝子のことを頭に描くたびに、あまりの悲運に気持ちが落ち込み、久しぶりに会える嬉しさよりも彼女がどうなっているか心配の方が大きく、腹のあたりがずんと重くなり向かう足取りも決して軽くはなかった。

伊ケ谷邸に到着すると、これもあらかじめ村長から連絡を受けていたようで、女中があの時のように我々を門まで迎えに出てきていた。

中本村長はじめ、教授、女性ふたり、そして僕が座敷で待っていると、伊ケ谷氏が入ってきた。
どことなく、前回見た時の自信にあふれた風格がやや無くなっている気がした。

「再び遠いところをわざわざ東京からおいでいただき、お疲れのことでしょう。今回は、人が増えておりますな」
そう無表情で話す伊ケ谷氏も女性がいることに不審感を抱いているようだ。

「正月が明けて間もないところを押しかけてきて申し訳ないです。今日は時間を作っていただきありがとうございます」
中本村長がまず挨拶をした。

「ふん、用件はわかっている。輝子のことだろう?ちゃんとあの子のことは面倒を見ているぞ!」
予想していたのであろう、すでに言葉尻が荒い。

「はい、本来後妻に据える予定の方でしたから、伊ケ谷様が彼女をぞんざいに扱われることはないと理解しております」
さっそく桜井さんが切り込んできた。本当に度胸のいい人だ。

「ならばなぜ大勢で乗り込んできたのだ?あまり目立つことをされると迷惑なのだがな」
伊ケ谷氏は不機嫌極まりない様子である。

「存じ上げております。ですからご迷惑を承知ではありますが、少し夕方近くの時間をねらっておじゃまさせていただきました。ただ、まだ法律的に奥方となってはおられない女性、ましてや児童である少女を軟禁状態にさていることは事実ですよね?」
桜井さんは容赦ない。話している声の調子はずっと柔らかいままであるから、深刻さを瞬時には感じさせないが、しゃべっている内容は的確に核心に触れているからさすがと言わざるを得ない。

「い、許嫁が結婚前に子を身ごもったのだ!これを怒って何が悪い!まだ子どもだからこそ、“しつけ”の意味でやっているのだ。文句は言わせんぞ!」

「伊ケ谷様、“しつけ”はご実家の親の責任においてなされるのが筋かと思われます。ここは親元に戻して差し上げてはいかがでしょうか?きっとご両親は娘さんのお顔を見たいと思われていますよ。“しつけ”という名目のものは近親者、直系の親がするものと法律的にも認識されております」

桜井さんの言葉の矢は、じりじりと奥深くに入り込もうとする。しかしまだ伊ケ谷氏はどうにかして逃げ切ろうとしているのではないか。

「輝子の家族は貧しく無知だ。世間の常識もおそらく持ち合わせていないのだ。きっとしつけの仕方も知らないに違いない。私の一声で言うことを聞いてくれる」

これはこれは、相当な偏見であるし下の者を見下した物言いは、逆に賢い名士とは言えない。伊ケ谷氏にあまり分がないのは明らかだ。そもそもは自分の息子が引き起こした事件である。それなのにそのことは棚に上げて、人を非難したり見下したり、世間の常識を知らないのはいったいどちらなのだ。
自分には非がないという流れに持っていきたいのだろうが、彼がしゃべればしゃべるほど筋が通らなくなっていくというのは皮肉だ。

「あまりここまで言いたくなかったのですが、こちらに伺う前に隣町の派出所で一応相談もしてまいりました。本日この件が解決に向かうことがなければ、警察に介入していただくことになりますが。
そうなることは伊ケ谷様が一番避けたいことではありませんか?それに、輝子さんはお産婆さんが処置をされた後は、専門の方にお世話をしてもらえていないとのこと。同じ女性としてはそのことの方がもっと心配です。一刻も早くお医者様にも診ていただきたいと考えておりますが」

ここまで話されるとさすがの伊ケ谷氏も顔色が一瞬で変わった。
真っ赤になって怒り出した。
「私を警察に突き出そうというのか!?そうなったらこの村はどうなると思う!私が百姓たちを取りまとめているのだ。村の暮らしが立ち行かなくなるぞ!村長!そうだろうが」

これまで静観しているばかりの村長が、突然名指しされて困ってしまっているが、意を決したようで口を開く。

「まあまあ、伊ケ谷さん。もちろん村は伊ケ谷さんのおかげで潤っていると言っても過言ではありません。それはもう常に村じゅうが感謝しておりますし、ましてや警察なんぞの世話になるわけにはいきませんよ。
しかしですね、もうここらで怒りの矛先を収めてはいかがですか。輝子もまだ子どもですし、親もいることですし、警察沙汰にまでなったら宗一郎君のことまでほじくり返されてしまいます。ここで温情を授けてあげたら、村人たちの見る目も少しずつ元に戻ってくるはずですよ」
なるほど、年の功でなだめてくれる人がいっしょに来てもらってありがたいことだった。

すこし落ち着き始めている伊ケ谷氏の表情を見極めた桜井さんが、今度は柔和な顔で落ち着いた声音で話し出した。

「伊ケ谷様が有難き恩寵を施してくだされば、もちろんこれ以上警察などに訴えることは致しませんことをお約束させていただきます。そこは村長からも、輝子さんは伊ケ谷様の恩恵を受けられて無事に戻られたと、村じゅうに広めていただくこともお願いしたいと思います。
そして、この先のことはご相談なのですが、輝子さんを私どもにお預けくださらないでしょうか?
やはり輝子さんの体調が心配です。東京の医師に診てもらうことをお許しください。もちろん、村で起きたことは秘密にさせていただきます。輝子さんのご家族にもお許しをいただくつもりです」

桜井さんに続いて律さんも口を開いた。
「きっと年の近い私が輝子さんの話し相手になれると思います。桜井さんといっしょに輝子さんのお世話をさせていただきます。お元気になられたら、親元を離れている多くの子どもたちを見てくださっている協会があるらしいことを耳にしたことがありますので、そちらに当分落ち着くまで入所していただくとよいのではと考えますが」

律さんも桜井さんとともに勉強会を開く同志であるから、いろいろな情報を持っているようだった。

これら一連の案は、僕たちも到着する前に彼女たちから汽車の中で打ち明けられていたので、教授とともにそうするしかないだろうと同意していた。

さすがの伊ケ谷氏もここまで完璧に提案されると怒りを静めるというよりも、もう同意せざるを得ない流れになっている。提案された内容は伊ケ谷氏の体面も保たれ、輝子の行く末も自分に心配は要らぬようだし、悪い話ではないということは即座にわかる話だ。

「う、うむ。し、仕方ないが輝子の体調も私としては心配をしていたのだ。そのようなことなら、そろそろ出してあげてもいいだろう。もうとっくに縁談は無くなっているのだ。この家には関係ない人間と言える。君たちに預けることにしよう。しっかり診てもらってくれたまえ。輝子の親にも必ずちゃんと説明せよ。私が許してやったのだと」

最後までなんという自分本位の人間なのだ。
それでもどうにか伊ケ谷氏の許しがもらえて、みんな一安心した。
そして桜井さんと律さんは女中の案内で、離れの部屋に輝子を救出に向かったのであった。

                            第9章へ続く

皆様、今回もお読みいただきありがとうございます。
また次回も訪問していただけると大変うれしいです。
どうぞよろしくお願いします。
                                      


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