
「論理的でない」という「だけ」の批判について
ネットで文章を書き始めて以来、ずーっともやもやしていたことについて書きます。
ネット上の言説でよく「論理的でない」という「だけ」の批判が見られます。本文よりも、コメントなどに多いような気がします。
かく言う私もたまに言われて、もっとちゃんと文章を書かねばと反省しています。実際、論理が間違っていることもあるので。
しかし、単なる私から見た傾向ですが、「いけてる人」ほどそういう言葉を使わないような気がします。
それは、仮説ですが、たぶん・・・
●「論理的でない」「だけ」でなく、より具体的な言葉で明確に批判、反論ができるから
●「論理的でない」=「その文章の論理が理解できない」ということであり、それは、「その文章が実際に論理的に間違っている」という可能性と、「その文章が述べている論理を自分が知識不足などのために理解できない」(つまり、自分が無知であるということがばれてしまうから。まあ、「無知の知」は大事ですが)という可能性があることがわかっているから
●似た言葉「論理的飛躍」も、微妙な問題があります。私は昔、数学の先生でしたが、定理や公式を知らない人にとっては、論理を一つ一つたどっていかないと理解できず、論理的飛躍だと思えた論説などいくらでもあったことでしょう。特に、数学など、問題が明確に定義されたものを除いて、自然な文章による言説には必ず「含み」(言外の意)があり、コンテクストを共有しているもの同士なら即理解できるが、そうでない人には「なんでそうなるの」とつながりがわからないことも多いから
ということなどではないかと思います。
このことの問題点は・・・
●「論理的でない」という反論は、なんとなく「かしこげ」(涙)で反論しにくいこと
●それを言う「論理のわからない」人は、自分の理解できていない「ミッシング・リンク」に、すぐに、自分の妄想を相手に投影することが多いこと(「こんな理屈の通らない(と自分が思っている)ことを言うからには、何かそもそも言いたい主張があって、それにこじつけて論を張っているんだろう」などと、プチ陰謀論的思考(ポジション・トーク観)に陥る)
●そういう人は思い込みが強く、主張も強く、面倒くさいため、結構影響力があること(面倒くさい人は、一定の権力を得る。特に日本のような自己主張が弱い人が多い国では)
ということではないかと思います。
もちろん、世の中で何かを発信する人は(SNSを利用しているならほとんどの人でしょうが)、「誰にでもわかることを書け」というのも分からないことはありません。
ただ、論理は長くなると、それはそれで追うのが難しくなります。そのために人間は公式や定理、常識、理論を生み出して使用しているわけですので、分からない側は分からない側で努力をして、理解しやすいようにしようと公式や定理などを使って話を短くしようとしている発信者側の努力にも寄り添うべきだと思います。お互いに。
以上、せっかくいろんな人がいろんなことを建設的に議論できるネットという場があるのに、それに水を差すようなことだと思っていたので、ちょっと書いてみました。
あんまり、論理的でないですかね・・・涙