展示の無意味の意味 - 「奇想の系譜」展を観て -
この展示をやる意義はなにか。展示を開催するという行為には、如何なるレベルにせよ、その意義が問われていると思うべきであろう。
例えば、特定の作家の仕事をまとめ、プレゼンテーションする。例えば、ある年代の作品を集め、その傾向を明らかにする。例えば、これまで美術史の主流に取り上げられていなかった作家の作品をピックアップする。
東京都美術館で開催中の「奇想の系譜」展はいったいその展示で何を示したかったのだろうか。
伊藤若冲・曾我蕭白の作品の強さ
展示は若冲・蕭白の作品で始まる。作品のサイズのインパクト、発想、画面構成、描画技術の高さに圧倒され、否が応でもこの展示への期待感を膨らまさせられる。特に若冲《象と鯨図屛風》左下部の波の表現、蕭白の繊細な筆遣いには目が奪われてしまった。しかし、その後の展示作品に若冲や蕭白ほどの力はない。決して他の作家たちが下手なわけではない。若冲や蕭白とは違う魅力を持っているともいえる。それでも、若冲や蕭白の作品が与えてくるようなインパクトは持っていない。序盤で期待感が高まったがために、尻すぼみしていってしまう展示構成となってしまっている。
もちろん、インパクトが後半、クライマックスに現れるような展示でなければならないというつもりはない。寧ろ、徐々に作品の質が落ちていくからこそいい展示となることもあるだろう。例えば、昨年東京国立近代美術館にて開催された「横山大観展」は、一番最初の3作品が素晴らしい絵画だった。その後、展示が進むのに比例して絵画の質が下がっていく構成は、日本画という国策絵画の形式によって大観の才能が如何に枯渇していくかを見事に表現していた。その展示構成で示される展示のメッセージは何なのか。それが問われている。
展示構成への疑問
本展の展示順は以下のとおりである。
伊藤 若冲 (1716-1800)
曽我 蕭白 (1730-1781)
長沢 芦雪 (1754-1799)
岩佐 又兵衛 (1578-1650)
狩野 山雪 (1590-1651)
白隠 慧鶴 (1685-1768)
鈴木 其一 (1796-1858)
歌川 国芳 (1797-1861)
まるでクライマックスが冒頭に来てしまったかのような展示構成だったのは冒頭で述べた通りだが、作家名の横に生没年を付した。こうして見ると何かが見えてきただろうか。驚くべきことに、私には何も見えてこない。なんとなく、江戸中期~江戸前期~江戸末期の順になっているぐらいだろうか。
もしこの展示を江戸時代の諸作家の「系譜」を示すものとして構成するのであれば、順当に言えば江戸前期から江戸末期へと年代順に並べるだろう。実際、展示公式サイトの白隠慧鶴のページでは「蕭白、芦雪、若冲など18世紀京都画壇・奇想の画家たちの起爆剤となった」とある。ならばここで挙がる3作家の影響元としてそれより前に展示するか、3作家の影響元を探るために遡っていく展示構成にすることだろう。前者の可能性はもちろん、其一や国芳が最後に現れることによって、後者の可能性も否定され、展示構成の意図が全く見えなくなる。
展示の意図はどこにあるのか
『奇想の系譜』は1970年に辻惟雄氏によって書かれた日本美術史論である。それまでに光の当てられていなかった江戸期の作家を取り上げ、日本美術史観を更新した一冊といえるだろう。村上隆も自身の作品補強に取り入れ、楮を作品に引用したりしている。しかし、現代はこの論の出版から約半世紀が経った2019年である。果たしていまこの論に則った展示を行う意味はどこにあったのだろうか。
展示公式サイトには開催概要として次のように記述される。
本展では『奇想の系譜』で取り上げられた6名の画家、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳の他に白隠慧鶴、鈴木其一を加えました。
8名それぞれの画家の作品を厳選し、近年の「若冲ブーム」、「江戸絵画ブーム」、ひいては「日本美術ブーム」の実相をご存じの方にも、またこの展覧会ではじめて魅力的な作品に出会うことになる方にも、満足していただける内容を目指しました。現代の私たちの目を通して、新たな「奇想の系譜」を発信することで、豊かな想像力、奇想天外な発想に満ちた江戸絵画の新たな魅力を紹介します。
(『奇想の系譜』展示公式サイト「開催概要」より引用)
つまり、辻の当初の論に2作家を付け加え、更新した「奇想の系譜」を示すことが一つ。そして、日本美術ブームを知らない新世代に「奇想の系譜」を再認識してもらおうということなのだろう。
しかし、果たして「現代の私たちの目を通して、新たな「奇想の系譜」を発信」できていたかというと甚だ疑問である。辻の論を主軸にし、「こんな作家もいた」とおまけ程度に2作家を付け加えたに過ぎないと言っても過言ではない。「奇想の系譜2.0」には程遠く、精々マイナーアップデートされた「奇想の系譜1.2」くらいだろう。
また、みどころとしては次のような記述される。
2 新発見、初公開の作品に注目
若冲《梔子くちなし雄鶏図》《鶏図押絵貼屏風》や芦雪《猿猴弄柿えんこうろうし図》など、新発見や初公開の作品が多数出品されます。
3 海外からの出品も多数、そして初の里帰り作品も
著名なプライス・コレクションから若冲、芦雪、其一の優品が出品されます。
そして米国・キャサリン&トーマス・エドソンコレクションより、其一の《百鳥百獣図》が初の里帰りを果たします。
(『奇想の系譜』展示公式サイト「みどころ」より引用)
つまり、初公開作品があるということである。初公開作品を交え、新たに2作家を加え、(『新版 奇想の系譜』を出版し、)新世代に「奇想の系譜」という美術史の存在を見せる。この展示の意義はそこである、ということだろうか。
最早、主流の美術史観の一つとなった「奇想の系譜」を新世代が理解する機会が提供されたことは決して否定しない。しかし、それは国立博物館で常設展として日頃から示しているべきであり、美術館が現代の企画展で200年以上前の作品を展示し、50年前の論考をアピールすることにどんな意味があるのか私には分かりかねる。そもそも、展示構成として「系譜」は示されていないのだが。
「奇想の系譜」が軸となる新たな展示が企画されるのであれば、如何にそれが20年という月日を経ていたとしても、「奇想の系譜」を継承した村上隆までの歴史を繋ぎ、あるいはその他の現代作家も加えて現代日本の文脈を紡いでいく展示であって欲しかった。
あるいは、せめて既存概念としての「奇想の系譜」を更に大きく動かすような再発見の展示であるべきだった。それこそ、『奇想の系譜』が既存の美術史観に与えた影響の大きさを企図するような展示であって欲しかった。
確かに出品されている作品の質は高い。「尻すぼみになる」とは書いたが、明確にいい作品で占められている展示だったと述べてよいと思っている。しかし、いや、だからこそ、展示の質もまた作品に勝るとも劣らないものであるべきだっただろう。
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