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「木を切る」ということ。

日曜日、家に大きな影を作っていた木蓮の太い幹を切った。

直径25センチくらいはある、硬い広葉樹。長い梯子をかけて、チェンソーがまだないので、旦那くんが手切りで切った。

しかし、随分、深くまで切っても、ビクともしなかった。

「全然切れないわー。これ、守護霊じゃない?!」

旦那くんはかなり疲れ果てている様子だったが途中でやめるわけにもいかず、頑張っていた。

一時間くらい、切り続け、ようやくミシッと音がした。

それからバキバキっと音がして、裏の谷底へ真っ逆さまになって落ちていった。途中で別の木の二股になっているところに引っかかって、くるりと回転し、頭から遠くへと飛ばされて、ドーン!!!と大きな音を響かせて木は落ちた。森の動物たちはすごく驚いただろうと、思う。

身体中、ゾワっとする感覚。


本当は撮影しておきたかったが、梯子を支えていたのでできなかったのがとても残念。


「木を切る」というのは、なんと原始的な行為だろうと思う。

罪悪感のようなものもあったが、切り倒したわけじゃない・・・と心の中で言い訳もする。

自然の、何十年も、自分が生まれるよりももっと前から立っていたであろう、その木の大きな枝を、切ること。

11月に、直径10センチくらいの広葉樹を切った時も、やはりミシミシッと大きな音がして谷底へ落ちたのだが、その時も味わった、あの感覚は、本当に生々しいものだ。

人間が、地球に生きている上で、太古の時代からやって来たであろう、行為。

ある意味、スキーで滑るのと同じくらいの原始的感覚がする。

破壊行為か?それとも生きて行くための、人間的行為か。いいか悪いかなどそういうことではなくて、「木を切る」、この原始的感覚が、単刀直入に言えば、とても好きだ。「山師」もしくは「空師」の方達は、パイロットのように、普通の人とは違う感覚を仕事にしている、そう思う。

私にとっては、とても新しい感覚だ。

葉が茂る前に成し遂げた。

家に、太陽の光がたくさん届くようになった。

入居前にも、太い幹を切っていたが、そこからはたくさんの枝が伸びて来ている。もうすぐ、その低い枝から木蓮の白い花が咲いてくれるだろうと思う。


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