寝台列車に乗る

「高いなぁ、いいなぁ」見るたびにため息が漏れる。

 寝台列車は私にとって、今も昔も手の届かないものの一つだ。今のもはやセレブの乗り物化したクルーズトレインに、今の私の収入ではとても乗ることなど叶いっこない。

 子どものころ憧れたあの寝台列車群は、今の収入さえ当時あればホイホイ乗ることができたのだが、いかんせん子供のお小遣いでは高根の花の乗り物であった。

 しかも通常、鉄道というものは移動手段であり、乗ること自体を目的には敷設されていない。「そこに行く」必要があるからこそ「選ばれる」手段の一つなのだ。そういう意味ではいまの乗ること自体を目的化したクルーズトレインは、古臭い鉄道体質の中で画期的なパラダイムシフトが起こったと言える。

 かつて、東京を起点に北に南にたくさん走っていた寝台列車。残念ながら東北にも九州にも知り合いも親戚もいない我が家にとって、いくら「寝台列車に乗りたい」と親に乞おうが、「乗った先に何の目的もないことを理解している」親と「乗ることが目的化して乗った後のことは考えない子供」とでは約束も契約も成立しないのは当然のことである。

 とにかく子どものころから鉄道の類が大好きだった(この辺もASD男子らしいでしょう笑)。

 ごくごく小さい頃、テレビの中からは、モータリゼーションの台頭に喘ぐ国鉄(日本国有鉄道・当時、日本全国に張り巡らされた鉄道網は国が保有・管理していた)が「ディスカバリージャパン」と銘打って、「乗りたい気分」を盛り上げるためのCMがバンバン流れていた。

♪あぁ~日本のどこかに~ 私を待ってる~ 人がいる~

 山口百恵のスモーキーな歌声をバックに、薄闇の夕景の中をジョイント音を響かせてテレビ画面の中をブルートレインが流れていく「いい日旅立ち」キャンペーン。

 前後して、全国にブルートレインブームが起こっていた。

 そう私もブルートレインに憧れたガキ一人である。

 東京のようにあのころから今に至るまで、街中を縦横無尽に線路が走りまくっている超都市で育ったわけではない私のような地方の少年にとって、列車(特に国鉄)は日常とかけ離れたのりものであった。いや、日常とかけ離れた場所へと連れていくだろう夢の存在であったかもしれない(これと前後して、少年キングという雑誌で連載が始まったのが「銀河鉄道999」である。実に地方都市の子どもが列車に対して持っていた非現実感をSFとして掬い上げたと思う名作である)。

 国鉄の駅からも我が家は離れていたから、それこそ親の帰省以外で動く列車を見る機会などほとんどなかった。ブルートレインは本の中だけの動かない存在であることが、子供のころの私にとってリアルな姿だったのだ。

 ブルートレインが載った本は隅々まで繰り返し読んだ。どの列車がどこからどこまで走って、何時間かかって、どれくらいの距離を走って、どの駅に停車して…なんて情報は、基本中の基本。

何号車の寝台はどうで、何号車はこうで、食堂車は何両目にあって、列車ごとにメニューが異なって…ってことも当時は覚えていた。

 列車が日常から遠いからこそ、情報に飢えていたし、乗れない代償が細部の情報を集めることにつながっていたのだろう。

 でも、あの頃憧れたブルートレインは、今はすべてない。

国鉄はJRになり、新幹線と飛行機の時代になり、地方都市にも遍くビジネスホテルチェーンが立ちならび、情報はメールでネットで片が付くようにもなった。

1昼夜かけて出かけて行くことの時間的労力、また行くだけの労力と運賃が不釣り合いだったり、情報が出かけること自体の意味を削っていった。

 それでも私は、大人になって、最末期のブルートレインに乗ることが出来た。

 初めて乗ったブルートレインは上野発札幌行き「北斗星」だった。正月出勤で冬休みがずれたことで、たやすくA寝台個室ロイヤルのチケットが取れた。

 乗車当日、冬の北海道に合わせてぽんぽこぽんに膨らんだ荷物を引きずりながら、小田急線を新宿で降り、中央線、山手線と乗り換えて上野駅にたどり着く。途中、誰に見られているわけでもないのに、「あの人北斗星に乗るんだろうね、なんかウキウキしている」と喝破されないか、一人で恥かしがったりもした。

 そんな自意識過剰な恥ずかしがりだったくせに、ちゃっかり食堂車でディナータイムの予約まで取るんだから、人ってわからないもんである(しかもカップルでなく一人でフランス料理を食べようって言うんだから、これがまた恥かしさを超えていじましい…)

 上野駅長距離列車は例の頭端式ホームからの出発で、それこそ新幹線ができる前は数多の特急急行列車が雁首を並べて発車を待つ姿が壮観だったという。広く並んだ改札から見渡せるホームに、中距離通勤列車が並んでいた。そこから伺うそこそこの賑わいを見せる頭端ホームからは、長距離列車が数分おきに出入りしていた当時がどれくらい賑わって凄かったか、まったく予想もつかない。当時の上野のリアルを知らない私は、子供のころ読んだ「ブルートレイン大百科」のページを再び頭の中で思い浮かべるだけしか、あのころを予想するすべがなかった。

自動改札を抜ける電光掲示板から「北斗星」の文字を探す。発車番線を見つけ、荷物を持ちなおし、進んでいくとホームにはすでに青の車体が横付けされていた。夢にまで見た「ブルートレイン」である。

 長く連なるB寝台の車列を歩き過ぎると、途中段落のように車両の形が少し乱れてそこが食堂車であることがわかる。窓からはあたたかな光が漏れて真冬の薄暗いホームを照らしていた。

(余談だか私はこの食堂車という車両が大好きである。何といってもあの窓の配列、横から見ると食堂部分と通路部分の窓の高さの違いにワクワクする。)

 食堂を超えて少し歩いていくと目当てのA寝台車があった。青函トンネル開通時に走行を開始したこの列車には、航空機との「速度の競争」は放棄して、今でいう「クルーズトレイン」の概念を曖昧に含ませてあった。実はこの列車の成功が、トワイライトエクスプレスを経て現代のクルーズトレインへの発展へと繋がっている。

 ロイヤルは個室で一人がけのソファーと机がベッドとは別あつらえで設置されており、さらにトイレとシャワーが室内にあった。コンパクトに機能的なのは私のようなASDにはもってこいである。ウェルカムドリンクがあったり、ビデオモニターもあったりと、(スペースはともかく)ちょっと良い目のビジネスホテルクラスだろうか。

 荷物を置いてソファーに座り、閉まっていたカーテンを開けると対向ホームにいた人が丸見えになる。ちょっと耐えられなくてすぐに閉めてしまった。余裕をもって「やぁやぁ大衆のみなさん、俺はこれから優雅に旅行だぜ」と悦に入れる性格だったらどんなに良かったろう(しかもこの時は正月出勤の振り替えなので、他の人が休んでいる間働いていた証明なのである)。

発車時間、列車は静かに静かに上野駅を離れた。初めて体験した客車列車は、動き出す際にモーターの音の高まりがないまま、軽い動き出しのショックとともに列車の窓から風景が流れ始めることである。これは初体験の感覚だった。

 列車は真冬の東京の夕景を、北へ向かって速度を上げ始めた。ドアがノックされ、車掌さんが検札とともにルームキーを渡してくれて、部屋の簡単な説明、食事の予約の確認もしてくれた。なんだか一人で乗っているのがすごく恥ずかしく、車掌さんの顔を見ることができず曖昧にうなずきながら聞いていただけだった気がする。車掌さんが帽子にちょっと手をやりながらドアが閉められると再び室内は一人になり、私はほっとして今説明を受けた内容を反芻しながら、一つ一つ確かめて行った。

列車はすでに軽やかな音を立てながら、東京の街を出ようとしていた。

暮れなずむ東京の平日を見ながら、私は一人黙って窓を見ていた。「出発のワクワク感」が落ち着いて「何か違うもの」に変質しようとしていることに気づき始めていた。

そうこうしているうちに食堂車からディナーの案内があった。私はディナーチケットを持って、部屋を出ると、まばゆい明りの灯る食堂のドアを押し開けた。にこやかな従業員に案内され、目を合わせないように指定の席に着く。きちんと椅子を引いてくれるのがまた申し訳なくて恥ずかしい。

 食堂車で食べた予約ディナーのフランス料理であるが、やはりフランス料理というのは、料理というよりコミュニケーションの手段として機能する食事であることが良く分かった。一人で食べていると、同じコース料理なのに他のテーブルと進度がずれてくるのだ。しかも次のメニューを待っている間、どこを見ていればいいのかわからない。すでに冬の夜はとっぷり暮れて、窓には照明に照らされた車内が反射しているだけだった。私はひたすら皿を見つめたり、おしながきを何度も読み返したりしていた。

こうして、子どものころからの夢が一つ叶った。

しかも自分で稼いだ金でかなえた夢の一つだ。

でも、何だろう?この気恥ずかしさは。気恥ずかしさが先に立って、うれしいのに「嬉しい」を表現できなくて、なんだか悲しくなってきた。

もし。

子どものころに憧れの寝台列車に乗れていたら、どんな気分だっただろうか?

 おそらく一人ではなく、両親家族ともに乗っただろうから、どれだけ嬉しいか話しまくり、どんな列車か説明しまくり、列車の中を探検しまくったことだろう。多分通過する駅の駅名表示を眺めたり、時計を見ながら、「あと何時間でついちゃう」とかカウントダウンしたり。きっと北斗星よりも町の大衆食堂なみの味とメニューだった当時の食堂車にも、大満足しただろう。

夢はかなった。

でも失われてしまった気分もある。この年になって一人で子供のようにはしゃぐことも出来ないし、相手の様子をお構いなしにうれしさを話せる相手もない。そこそこ失敗体験や何とか型通りの社会性を身に着けると、楽しいより「恥ずかしい」が先に立ってしまったりする。

子どもの頃の無邪気な夢は、旅一つとっても自分が孤独になるだろう未来が待っていることなど予想もしていないからこそ、どの夢も輝いている。

冒頭で「寝台列車は私にとって、今も昔も手の届かないものの一つだ。」と書いた。

今も昔も「誰かと楽しみを分かち合うことができないまま」手の届かないもののひとつであること、これが正しい表現であるかもしれない。

ASDの私は、いつか誰かと「楽しい」と共通項で旅を語れる日が来るのだろうか?

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