遠足のおやつ
私には子供がいないので、今はいくらなのか知らない。
私が子供のころは、その金額は200円だった。
何の話かというと、遠足に持っていけるおやつの金額のことだ。
200円。なんという些少な額んだろう、と今なら驚愕する。それこそそろそろ日差しも強くなり、外に出て「やれやれ」なんて言いながら、自販機でドリンクでも買おうモンなら、あっという間に残りは50円程度になってしまう額である。どこかに出ていたらもう帰りの電車賃すら払えない。
子どもの頃のおやつって、親もしくは祖父母、または年長の兄弟がコントロールする類のものだった。幼い者に選択権はないのだ。もしくはアイディアに困った母親に、夕食をどうするかの希望調査のため我が子に現物を見せ、ついでに荷物持ちさせるための買い物に連れ出され、そこで何か一つ、「ついでに」買うことを許可される類のものだった。
それが(今の感覚ならたった)200円(ぽっち)でも、自分で自由に選択できる。また、それを独り占めできる。遠足のおやつの嬉しいところは、「自分の好きにできる」ところにある。
100円玉のデザインは今と変わらなかった。でも子供にとっては、茶色い10円玉の平坦なデザインより、銀に鈍く光る100円玉の桜の浮彫のモチーフがやっぱり高価に見えた。お遣いのために、たまに握らされることがあったが、自分のために、しかも複数枚握らされることなんて、滅多にあることではなかった。そう、まだ私は自分の財布すら持っていなかったのだ。そういう意味では私は、そこそこ大きくるまでお金と自分の距離は遠い関係だった。
親、または祖母からその100円玉を2枚貰って家を出る。知っている駄菓子屋は自分の日々の行動範囲の中に3軒ある。どういう順番で回ろうかと考える。考えるが、とりあえずはまず一番至近の、家の遣いでも行く八百屋兼駄菓子屋に向かう。家の玄関を出て、左右に伸びる道路を右へ辿り、最初の角をまた右へ折れてまっすぐ進み、また右へ曲がって少し歩くと、その「いつもの」店がある。
今考えれば、決してサービスも品ぞろえも良くない店だ。店主も愛想がなく、子供ごころに怖かった記憶がある。また夕方にはその店の爺様が、ステテコ一枚だけ履いた裸の姿で店の前の長いすに陣どり、通り行く人をうさん臭そうな目で眺めていた。しかし、当時の子供、いや近所の住人にとってもそんなことはどうでもよかったのだ。とにかく何かあると、その店で買い物をして、その町は日常が維持されてたのだから。
当時、私は遠足のおやつとして何を買っていただろう。
チロルチョコやフィリックスガム、クッピーラムネは遠足のような「ハレの日」の駄菓子ではなく、もっと日常のニオイがする駄菓子だ。
かといって麩菓子のような、リュックに詰めた途端に粉砕される未来が簡単に予測できるものを買ったとは思えない。
多分好きなものを買う、という行為よりも、いかに200円という金額に合わせてお菓子を組み合わせるか、ということに拘っていたんじゃないかと思う。遠足の時、自分が買ったおやつを待ちきれなかったという記憶がないのだ。たとえばよくテレビでもサイトでも、あの頃の懐かし駄菓子、なんて特集をやっていたりするが、どれをとってもピンと来たことがない。
さくらももこ氏のエッセイだったか漫画だったか、あの頃の子供たちの中で、遠足の駄菓子というものは、クラスメイトとの情緒的交流というものを基軸通貨とした貿易商品として機能していたことを喝破していたのは。
実は私には、持参した菓子を通して他者と交流した、そんな記憶もない。
級友の菓子を見て「それを買えばよかった」的な「失敗感」や、級友の「おお、その菓子をどこで見つけたのだ?」的なセンスに対していわれもない「敗北感」を持ったことがなかった。
むしろ遠足の記憶は、菓子を選ぶそのものよりも、選ぶ日選ぶこと、そこに至る過程の学校内の非日常性に対するストレスの方が大きかった。
たとえば遠足の班決めだったり、バスの席決め、だったり「誰かとの関係性が露見する」シチュエーションがとにかく苦手で負担だった。先生が「ひと班5人になりなさい」と声をかけると、その時からどうしていいかわからなかった。まわりは次々顔を見合わせ、またお互いに手招きをしあい、難なく小集団は形成されていった。私はそんなときどうすればいいかわからなかったのだ。どうせ先生が命令するなら、出席番号順に班割をするか、当番を決める便宜上今の座席位置で決めた班構成で決めればいいのに、何度も思った。
小学校4年生の秋の遠足である。
どこに行く予定だったか、覚えていない。ただ、その時の遠足「だけ」はこれまでにない楽しみを持ったものだった。ひとつはおそらくその時が人生で初めて、仲良くなったクラスメイトと同じ班になり、遠足のおやつを班のみんなで200円もって買いに行ったことがあったのかもしれない。またもしかしたら「たまたま」自分にとってコントロール可能な段階を踏んで、遠足への段取りが進んでったせいかもしれない(その時の担任の先生は、私を1年2年の時にも担任をしたベテランの男の先生であり、4年生で再度担任になっため、私の扱いには慣れていたと思われる。当時ASDとか自閉症とかアスペルガーとか、通常の小学校教育の中では全くポピュラーではなかったと思われるが、この先生は間違いなく私の発達の偏りを理解していたと思う)。お弁当も大好きなサンドイッチにしてもらうことに決まっていた。
いずれにしろあんなに楽しみだった遠足は初めての経験だ。 だからこそ、もっと幼いころからそうだったように、きっと全身の神経が興奮したのだろう。
朝目覚めると、熱発をしていた。ふらふらするし、幼い頃から度々体験したような持続的な吐気がある。
親は親として当然、遠足には行けなものとしての対応を検討する。学校に欠席の電話をいれるという。
しかし私はそれを止めて「これでも行く」と強硬に言い張った。
今ならわかる。こんな状態で行っても、楽しめないし、同じ班の子たちにも、何より引率する先生にも迷惑がかかる。しかし当時の子供のアタマでは、「行けない=すべてが終わり」だったのだ(子供のころって、経験も乏しく世界も狭いからか、なんだかすぐに絶望していた気がする。何気に大人より絶望回数は多かったかもしれない。ただし絶望も乱発されるだけあって、すぐに復帰できる程度の絶望ってのが大人と違うところでもある)。
止める両親を振り切って家を出た。しかたなくこれ以上言葉で我が子を止めるのを諦めた親が、後ろからついてくるのに気づいていた。
登校するほかの子たちは元気いっぱいだ。羨ましい限りだった。誰か一人でも同じように体調が悪いまま我慢してやってきている子はいないだろうか。そんな子がいることが分かれば、なんだか自分も大丈夫な気がしていた。
ぜぇぜぇ言いながら、教室に入る。自分の席について突っ伏す。早く出発時間になってくれと心の中で祈ってた。そうすればすぐに遠足が終わって、家で横になれる。
なんだか思考が支離滅裂だが、当時は本当にそんな気分だったのだ。体調が悪いせいで、いつもの聴覚過敏が酷くなって、周りで話しているクラスメイトの話し声が頭にまとわりついて、余計に気分が悪くなり、混乱してきた。
ほどなくして、まだ朝の会の時間ではないのに先生が教室にやってきた。「あれ?先生」という周囲の声が私から直接姿は見えなくても聞こえていた。先生は机につっぷして、手で両耳を覆っている私の肩をやさしく叩いて、声をかけた。
「今日は帰りなさい。」
終った。と思った。もう遠足には行けない。
と、同時に、もうこの状態を我慢しなくてもいいという安堵感もあった。
級友たちは口々に「え?帰るの?」「どうしたの?」「何かあったの?」と言っている中、先生は私をゆっくりと椅子から立ち上がらせて、リュックを持ってくれた。先生に支えられながらゆっくり教室を出て、階段を降り、玄関に来ると、遠足に向けて意気揚々とした子供たちでごった返す靴箱の向こうで親が立って私を待っていた。
「申し訳ありません、お手数おかけしました」
父親の背に背負われた私は、親と先生の丁寧なやりとりを父の背中越しに聞いた。もう私自身には、ぐったりして先生に挨拶する気力すらなかった。
集合時間がせまり、父の背中に背負われて校門を出るさなか、入れ違いに校門を入ってくる、これから元気に遠足に出かけようとする子供たちが私を指して「どうしたんだろう?」「行かないのかな」と口ぐちに言いながら校舎へ吸い込まれていった。
父の背中に揺られて帰宅すると、部屋にはすでに布団が敷かれていた。もう我慢しなくて良くなったことから、這うように布団近づき、布団に横たわった。何度も横になったり、上半身を起こしたりを繰り返しながら、遠足のために着た体操着をやっと脱いで、また同じ時間かけてパジャマに着替えた。そのまま最後コテンと布団に横になると、もう起き上がれなかった。時計をみると時間は遠足のバス出発時間をとうに過ぎていた。
こうなると私は暫く駄目である。全身の感覚が過敏になり、パジャマが皮膚と擦れても不快で決まった方向でしか寝返りを打てず、母親が家族のために作る夕食のニオイどころか、テレビから流れる食べ物のCMを耳にしただけですら気分が悪くなって、テレビを消してくれと懇願したほどだった。
人生で初めて「主体的に楽しみにした」遠足の思い出は、こうして楽しい思い出にはならなかった。
ASDは日常の枠から外れられないのだろうか?そこから自由になる機会があっても体が裏切るようにできているのだろうか?過去を振りかえり、感情的な考えをしてみた。でも、それだけじゃなく、「何か」と「何か」の組み合わせが絶望的に悪かった偶然の瞬間も、多分あるのだ。
いずれにしろ1週間ほど寝込んだ私には、遠足後の新たな秩序のできたであろう学校学級の中へ、何とか適応していかなくちゃいけないという新たな課題が、遠足の思い出の作文をどうしようという問題とともに新たに課されることになった。もう遠足前には戻れないのだ。
さて。
あのときみんなで買った、みんなで食べる約束をした200円のおやつは、いったいどうしたのだろうか。残念ながらその記憶がない。
多分、その後の日常生活の中で淡々と消費されていったと思われるが、私にとってあの遠足のおやつは、どれひとつ対人貿易として使用される基軸通貨にはならなかった。
それ以来私の対人交流の基軸通貨は、多分幼い価値で失われたままなのかもしれない。
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