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穐吉敏子の世界一クレージーなファン、彼の夢

天井を仰いだら、コンサートポスターに覆われていた。

「全て同じ人、穐吉敏子ですよ」と盛岡の開運橋にあるカフェ・ジョニー店主、照井さんが言った。

初めてジョニーを訪れたとき、兵庫生まれのジャズ打楽器奏者、富樫雅彦のアルバム『Twilight』(1976)について話したら、『Spiritual Nature』(1975)のレコードを聴かせてもらった。壁に飾ってあったCDには『般若心経』と「テクノ」が両方書き込まれ、私は興味をそそられた。自分の名前が『般若心経』から付けられたので、なんとも奇妙な親近感が湧いてきた。

92歳の伝説的なジャズピアニスト、穐吉敏子より認められた「世界一クレイジーなファン」のお店を訪れた。1974年から穐吉さんの音楽を真剣に聴いてきた照井さんは、「穐吉敏子JAZZミュージアムを設立する」という夢を、まもなく叶える。穐吉さんを知っている人にも知らない人にも、彼女の経歴を発見してもらい、このように努力すれば、誰でも才能を開花できるという意味を込めている。ミュージアム開館に加えて、11月11日には世界初の3世代にわたるトリオ。穐吉さんと娘のマンディ・満ちる、孫のニキータ・ピアーギンが演奏する。

「もうちょっともうちょっと上達すると、またやらないといけないことがあるわけ。それの延長で、ここまで来ているわけ。これからも続くわけ」

穐吉敏子(2021)

照井さんは初めて穐吉さんの音楽と出会ったのは、7年間開催していたレコードコンサートの最終回に、先輩が『孤軍』(1974)をかけた。27歳の彼は「体が震えるほどの衝撃が走った」。それから彼女の過去のレコードを聴けば聴くほどその素晴らしさを感じられ、照井さんは穐吉さんについて少し勉強しようと考えたという。彼女の過去と音楽の歴史を遡り、その「少し」が続いて半世紀近くとなった。

「ジャズはいわゆるリズム的には黒人のものだけれども、上に乗っかっているメロディはヨーロッパから来た。じゃ、日本のものは何があるかなと。何も入っていないので、無いものを入れるのが私の仕事じゃないかと思って、それでできたのが『孤軍』」

穐吉敏子(2021)、NHK TVより

1929年に中国の遼陽に​​生まれた穐吉さんは、7歳からクラシックピアノを習いはじめた。第二次世界大戦後、父の故郷である大分県の別府に戻り、ピアノを弾きたいという強い思いゆえに、わずか16歳の時にダンスホールで働いた。1948年の夏に上京し、本格的にジャズの世界に飛び込んでいた。転機は1953年11月、日本劇場​​で開催されたジャズ史上に名高いツアー Jazz At The Philharmonic (JATP)。そこで、オスカー・ピーターソン・トリオの演奏が彼女の心に焼きついた。

翌日、ピーターソンは西銀座で穐吉さんの演奏を見に行って、彼女のプレイに感激した。彼は直ちにJATPのプロデューサーであるノーマン・グランツに穐吉さんを推薦し、ピーターソンを信じて、穐吉さんの演奏を急遽、放送局で録音したという。音源は710インチのアルバムになり、翌年アメリカで発売され、噂になった。それがきっかけで1956年に、バークリー音楽大学院より全額奨学金で招待され、初めての日本人として入学した。渡米後、初期代表作『Long Yellow Road』(1975)を作曲。今まで歩んできたジャズの人生は、この先も、黄色人種としての道はまだ長いだろうことを痛感した曲である。

照井さんはレコード解説の間違えていた日付に線を引いて、正しい日付を書き直した。彼は彼女について全て知っているからだ。

「一番大切なのはいつ、どこで、だれが、なにを」と照井さんは言った。

「はい」とノートに刻んだ。

「例えば、今日は盛岡で私と」

「敏子さんの勉強会!」

「そう!」

照井さんはもう一つのエピソードをシェアせずにいられなかった。グランツはモントリオールの空港に向かうタクシーの中でラジオから流れた音楽を耳にして、即座にタクシー運転手に引き返してもらい、ピーターソンを探しにアルバータ・ラウンジへ向かった。ピーターソンの初登場は、まさかのカーネギー・ホールだった!

日本人の考え方の根源、文化を勉強した上で、彼女はジャズを作っている。古典である宮本武蔵の『五輪書』(1645)と15世紀の『世阿弥の花伝書』を研鑽してきた。日本の要素を織り込んだ代表作として、江戸時代の遊郭に生きた女性たちを表した『花魁譚』(1976)があり、『Insights』(1976)には水俣病を題材にした「ミナマタ」が納められている。彼女いわく、真剣勝負。穐吉さんの音楽で彼は生き方を教わり、エネルギーの元になったのだ。

穐吉さんと照井さん (1982年)

「誰もやらないだろう、初めてのことをやろうと、それはやはり穐吉さんの音楽を聴いてなかったら、そうならなかったかもしれない」照井さんが言った。日本国内を探してみると、日本ジャズに専念しているジャズ喫茶はどこにもなかった。30歳になったとき、ジョニーを日本のジャズ専門店にすることを決意し、テーマは「Long Yellow Road」とした。日本から、世界に通じる素晴らしいミュージシャンが生まれることを願ったという。

「全く陽のあたらない日本のジャズをなんとかするべと熱情をたぎらせている」

陸前高田邪頭(ジャズ)音頭マンガ(1975)

1980年は照井さんの転機が訪れた。穐吉さんの秋田公演と青森公演の間の1日を見逃さず、陸前高田市民会館で予定されていたコンサートを無理やりずらしてもらい、穐吉さんの三陸ジャズクラブの仲間たちと主催し、お二人は初めて出会った。その後、穐吉さんには毎回帰国の度に、カフェ・ジョニーまでお越しいただいた。2001年にカフェは盛岡に移転したが、16歳から50歳まで積み上げたレコードが2011年の震災で津波に流され、過去は全て失われた。そのとき、穐吉さんは演奏をプレゼントしたらしい。90%ファンであり、10%友達であるという不思議な関係は音楽によって生まれた。何度も、穐吉さんのコンサートを聴きに行くツアー「ジョニーと行くニューヨーク」という企画を立て、20人ほど集まり、いつも全員が穐吉さんの自宅に招待され、手料理をご馳走になったようだ。

「ニューヨークに行く時に、お店はどうしますか?」と私が聞いた。

「お休み。収入ゼロ」

2回目にお店を訪ねたとき、照井さんはニューヨークから戻ってきたばかり。穐吉さんがミュージアムに贈る、貴重な1907年のスタインウェイのピアノを日本に運んで戻るという重大な任務があった。イギリス出身の音楽ジャーナリスト、ピアニストのレナード・フェザーから譲られ、歴代のジャズミュージシャンも弾いていたピアノだ。ところが、日本から5人で出陣しても、ピアノを地下室から運び出せなかった。照井さんが失敗談を私に
「アッハッハ」で話している最中、ちょうど今回のピアノを運び出そうとした5人の中の主役から電話がかかってきた。彼は日本の皇室のピアノを修復した人物で、今回のことを「絶望的な落ち込み」と言った。また、お店は「アッハッハ」の笑い声に満ちていた。照井さんはすぐに作戦を変えた。「このピアノは岩手の宝物になるだけではなく、日本の宝物になる」と信じて諦める余地もなかった。

音楽の探究はニューヨークの古本屋に留まらなかった。彼は英語を読めないが、日付に極めて繊細。1954年のアメリカの、主に「ジャズ、ブルーズ、そしてその向こう」を専門に扱う音楽雑誌『Downbeat』を捲り、「Toshiko」はいるかなと思いながら探した。小さな「Toshiko」のテキストを発見したとき、心臓が止まりそうだった。

「ほら、ほら、彼女が書いた」照井さんは言いながら、本に、鉛筆で引いている線を見せて、読み上げた。そして、彼は空気を嗅いだ。

穐吉さんが執筆した『ジャズと生きる』という本から、彼女が初めて「聴いた」レコードと最初に「買った」レコードの情報を得た。レコードを、肝心要の資料を入れたフォルダーから取り出し、テディ・ウィルソンの78回転のSPレコード『Sweet Lorraine』(1935)とルイ・アームストロングの『West End Blues』(1928)を蓄音機で聴かせてくれた。ずっと探してき2枚のレコードは、2016年のコンサート前日にたまたま神保町で掘り出した。翌日に、穐吉さんからサインしてもらった時「すごいでしょう!」と大自慢した。見つけたとき、1億円の富くじに当ったような姿で街に歩いていた時のことを、奥さんの小春さんがこう話した。「喫茶店でコーヒーを飲んで待っていて、窓から見えた彼はその二枚のレコードを持ってて、私と待ち合わせするのを忘れて、私を通り過ぎたの!」

照井さんは、ファンの中でも恵まれている。穐吉さんがテレビに出る際、「穐吉さんがNHKに出てますよ」と友人の川村さんからの電話に続き、坂本さんからの電話もかかってきた。照井さんはきっと喜ぶだろうと。また、同じファンである富田さんからは、昭和36年の『朝日ソノラマ・レコードブック』ソノシート盤の『穐吉敏子リサイタル』と書かれたレコードを譲ってもらった。「ぼくが持っているより、照井さんが持っていた方がいいと思うので差し上げます!」

最後に、小春さんは照井さんより盛り上がっていた。穐吉さんに最も感動したときは、2003年10月17日に穐吉オーケストラがカーネギー・ホールでの最後のコンサートだ。アメリカで「ヒロシマ そして終焉から」の曲を演奏したのは、本当に勇気があるという。そのとき、小春さんの涙がぽろぽろ流れ、複雑な心境で心に沁みた。その後、いつもコンサートの最後に広島の曲を演奏する。「人間どんな時でも希望をなくしては生きられない」という意味が込められている。

資料フォルダは全て穐吉さんの資料である。これは壁の一部だけ。

「すごいことをやった人の形跡を一行を漏らさずには不可能だですけど、できるだけ、穐吉さんの資料を集めて、後世に残したい」

照井顕(2022)

穐吉さんが言うようにジャズは、演奏する側も、聴く側も一生懸命勉強しないと楽しめない音楽である。素晴らしいミュージシャンがいて、その聴き手も負けるつもりはない。穐吉さんはジャズの「グラスの天井」を突き破り、照井さんはとことん彼女の音楽に夢中になった。どの背景で作曲したのか、その国では何が起こったのか。彼は、一つのことを知るために、全てのことを知らないといけない。自分が骨から好きなことだったら、いくら困難があっても永遠に続け、貫き通すことができるという。照井さんは手がかりを鼻でふんふんし、推理を解くように、点と点の繋がりを見つけ、ストーリーが浮かぶ。カフェ・ジョニーから出たとき、自分も今やっていることの鍵を見つけたように感じて、血が沸いていた。

彼と電話したら、実はピアノを持ち運びするのは、まだ苦労しているようだ。私が感銘を受けたのは、誰もがミュージアムをジャズ精神のごとく、無料で自由に見られるようにするため、彼の肩には膨大な資金のストレスがかかっているということだ。時間が刻々と迫っているが、スタインウェイのピアノをどうやって運んで戻れるのか、このライティングを通じて、志のある人が一緒に考えてくれることを願っている。

「闇は陽が昇る直前が最も深いという」

陸前高田邪頭(ジャズ)音頭マンガ
(照井さんが1975年に日本のジャズ音楽祭を開いた凄まじい話を漫画化された)

その後、照井さんからの郵便が届いた。音を描いていただく正方形の紙以外に、穐吉さんの『ジャズと生きる』の本と、照井さんについて書かれた漫画、それから3部の新聞紙が入っていた。気づいたら、私の名前が盛岡タイムズに載っていることにびっくりした!私は彼を取材していたのに、私が気付かない間、私も取材されていたのだ。しかも、私より彼が先に記事を公開したという驚きがまだ響いている。

「もうちょっともうちょっと上達すると、またやらないといけないことがあるわけ。それの延長で、ここまで来ているわけ。これからも続くわけ」 穐吉敏子(2021)


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