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ひといちばい敏感な娘のために、幼稚園と一緒にやっている取り組み

いろいろな出来事があったここ数日。
天秤座新月のゆさぶりを直で受けとっていた日々でした。


娘がはっきりと声に出して「もう無理です」とSOSを出してくれたことで、わたしも幼稚園の先生たちとより綿密に連携をとりながら日々を過ごすことができるようになっています。


担任の先生からご提案いただいて、ここ数日は毎朝、直接クラスに行く前に、別室のしずかで落ちつく空間で、担任の先生や園長先生とわたしと娘3人でお話をする時間を設けるようになりました。

前日の夜、寝る前にわたしに伝えていてくれた不安なことやいやだったこと、登園中にぽつりと出てくる不安なことや怖いことを、わたしが娘に「あってる?」と確認しながら、先生にお伝えをする時間。

その時間があることで、先生たちも「そんなふうに思っていたんだね」「それが怖かったのか」「そんなことを思っていたのか」「そんなことまで考えていたんだね」と発見・気づいていただけて、「じゃあ、こんなふうにするのはどうかな?」と娘に直接提案してもらえるようになりました。

わたし側も、先生から「それ思い当たることがあります。実は…」とクラスの様子をより詳細にお話ししていただけるようになったことで、娘の気持ちをさらに深く理解できるようになり。わたしも、先生も、お互いに相互作用で、娘への理解を深められていっているんじゃないかな?と感じています。


ひといちばい敏感なHSCの娘は、察する能力が人よりも高く、幼稚園という "社会" のなかでは、お利口さんで物分かりのいいペルソナの仮面を被ってしまいがち。いつも微笑みながら「うん」とお返事したりするからこそ、先生たちも「大丈夫なんだ」と思ってしまっていたところがあったのだと思います。もしくは、「ちょっと恥ずかしがり屋で内向的な性格なんだな」と判断されていたところのもあったのかも。

でも、こうやって小さなことをひとつずつ丁寧に伝えていくことで、先生たちも、娘の心の機微や本当の思いに気づくことができるようになり…。

今日も、わたしと涙の別れをした後、「クラスには行きたくない。ゆっくりここにいたい。朝のうちはなにもしたくない」と、ちゃんと自分から園長先生に伝えることができたようで。園長先生と一緒に、ふたりでのんびりと別室で過ごし、その後も、「運動会の練習には参加したくない」と先生に自分の気持ちを言えて、先生たちが交代で娘を見ながら、娘は別室から運動会の練習をしているみんなを見学する、という運びになったそうでした。


わたしも、ここ数日は特に、仕事の合間のお昼休憩などに園に電話を入れて「あの後はどんなでしたか?」と聞かせていただくようになり。

正直、そうやって毎日のように電話をかけたり、時間と人員を割いて娘のためにいろいろと調整してもらうことに対する申し訳なさの気持ちも出てきました。また、娘が別室行動になったと聞いて、「うわーーー涙」って不安に思ってしまう自分の感情にも気づけたり。

でも、それって、今までどれだけその辺りのことをなあなあにして、娘ひとりに頑張らせてしまっていたのか、どれだけ自分ひとりだけの力で解決しようとしていたのか、という気づきでもあって。


自分の中には「めんどくさい親って思われたくない」「過保護・モンパレって思われたくない」っていう思いがあったんだなぁ…ってことにも気づいて、びっくり。

そうだったのかぁ…。

わたしの親は、いわゆる「モンパレ・過保護」と呼ばれてしまうような人で。何度も母と一緒に校長室に呼び出され、母と校長・教頭先生がバトルするのを見ていたわたしとしては、そんなわたしを守ってくれている母のことを恥ずかしいと、恥じる気持ちがあったんだなぁって。当時は時代も違って、今みたいに一人一人の子どもに寄り添うっていう考え方は主流ではなかったから、余計に「めんどくさい外人だわ」「郷に入れば郷に従えよ」っていう先生たちの思いも透けて見えてしまっていて。さらに学校でも「この子は、あのお母さんの子どもだから対応に注意して」って言う先生たちの暗黙の空気感も敏感に察してしまっていたのです。繊細だからこそ、ですよね。

だから、自分は先生たちにそんなふうに煙たがられてしまう親になってはいけない。そしたら、結局娘に余計に迷惑をかけたり、孤立させてしまうことになるっていう、恐れとか信念があったんだなぁって気づいて、結構おおきなデトックスでした。


娘がSOSを出してくれたから。そしてわたしも、今回の一件で早々に「わたしもキャパ越えしてます。もう、ちょっと、どう対処したらいいかわからなくてお手上げです。メンタルも身体もボロボロです。助けてください」と声をあげることができたから。こうやっていろんな気づきがあったんだなって。娘のおかげだなって、しみじみと感じています。

娘にとっても「助けを求めれば、本当に世界は助けてくれるんだ」ということを "実体験" として感じることができているんじゃないかなぁと、別室でみんなとは別行動をしていたと聞いたあと、思いました。

社会や人、世界に対する信頼感・安心感が基盤にあるからこそ、人は助けを求めることができたり、「自分は今困っています」と声をあげたり、「わたしはこうしたいと思っている」とか「これはイヤだ」と言うことができるのかもしれないなぁって。


園長先生からも「どんな些細なことでも、お気づきの点を伝えていただけたら、わたしたちも対処法を考えられたり、どうしたらいいのかわかって助かるので、これからもどうぞ、こんな感じで伝えてください」と、やさしいお言葉をかけていただいて。

それ、建前で言ってる?本当に、ちゃんと、本音で言ってくれてる?本当はうざいな、めんどくさいなって思ってないかな?って不安が自分のなかに湧きあがってくることにも、ちゃんとやさしく気づきを向けてあげつつ。


「人は、社会は、世界は、やさしいところだと信頼する」

これが、去年うつを経験したわたしの最近のモットーで。
そのために、ちゃんとSOSを出していくこと。配慮してもらい、それを遠慮することなく、ありがたく受け入れること。そういったことを、娘のおかげで、親子ふたりで練習させていただいています。

まだまだ小さな実験の一歩たちは、はじまったばかり。小学校の入学まで、後半年。
一進後退することもきっとあるけれど、それすらもやさしく、忍耐づよく受け入れて。
ゆっくりと、着実に、成長していく娘のこと、そして自分自身の心に、信頼をおいて。

ゆっくりと進んでいこうと思います。


ちゃんと、いい方向に一歩を踏み出せていっていけてるよね?
娘にとって、過保護ではなく、ちょうどいい塩梅で、彼女の育ちをサポートできているかな?

不安になったり揺れ動く気持ちを感じつつ。この文章を書きながら、ちょっと泣きそうになっている自分にも「大丈夫だよ」って声をかけながら。

ゆっくり、進んでいこうと思います。


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ねう
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