大学時代の恩師に教わった「本当に上手な文章を書くための秘訣」
「当時のベトナム人の生活は、苦しいものだった。それはまるで海の中でようやくつま先で立ち、海面からやっと鼻だけ出せるようなものであった。少しでも波が立てば、あっという間に頭まで波の下に潜る。足元を滑らせれば、あっという間に冷たい海の中に溺れる。そんなギリギリの中で、彼は日々、生活していた」
これは今から12年ほど前、わたしが大学1年生のときに読んだ本の、いまだに深く印象に残っている文章の一説だ。ただし、当時のわたしはこれを原文、つまり英語で読んでいた。
それは、わたしが所属するコースの全1年生が必修で受ける必要のあった、Introduction to Academic English(アカデミック・イングリッシュ入門)で教授が選んだ教材だった。アカデミック・イングリッシュ入門の教科書は別にあったが、シンガポール人の教授は「こんな教科書は窓から捨てろ。こんなものに意味はない」と初回の授業で言い放ち、わたしたちに1940年代のベトナムの経済について書かれた、文化人類学の本を購入するように申し伝えた。
当時、わたしは関関同立の国際関係学部に入学した。その中でも、4年間のすべての授業が英語で行われる少人数コースが、わたしの所属するコースだった。
25人ほどいたクラスメイトのうち、10人弱が日本人で、残りは韓国やシンガポール、オーストラリアからの生徒だった。英語がネイティブだったのはオーストラリア人の女の子のみ。他の、イギリス人やアメリカ人などの英語がネイティブであった人、もしくは英語が母語ではなくとも、ネイティブレベルであるとみなされたフランス人やベルギー人の生徒たちは、もうひとつあるアカデミック・イングリッシュ入門のクラスを受けていた。言ってみれば、わたしの受けていたアカデミック・イングリッシュ入門のクラスは、英語力において秀でていない方、いわゆる落ちこぼれクラスだった。
落ちこぼれクラスとはいえ、25人いるクラスメイトのうち10人弱であった日本人の8割が、帰国子女・インターナショナルスクールから上がってきていた。つまり、そんじょそこらの大学1年生に比べたら英語力はネイティブレベルだったと言っていいと思う。わたしを含め、一般の公立高校から一般入試でこのコースに入学したのは、たったの3人だった。本当の落ちこぼれは、わたしたちだった。
それでも、クラスメイト全員にとって、教授がわたしたちに教科書代わりに使うよう指示したこのテキストは、難題以外の何者でもなかった。1940年代のベトナムの経済状況について述べた学術書。どっからどう考えても、アカデミック・イングリッシュ入門には向いていない。(ちなみに、1ページ目で既に意味を理解することを諦めたわたしは、早々にひとつ上のクラスのイギリス人の友人に助けを求めた。彼もこのテキストには苦悩していた。「俺らのクラスで読んでも難しいだろ、このテキスト。いや、興味深いではあるけれど」と言ってくれたのが、心の救いだった)
教授はさらに、わたしたちにシングリッシュ訛りで申し伝えた(この訛りを理解できるようになるのに春セメスターのすべてを費やした)。「このテキストの初めにから1章までを、すべて equasion にすること。それがこのクラスをパスできるかどうかの判断基準になる」
日本人勢は全員頭の中にハテナマークが浮かんだ。恐る恐るまわりを見渡すと、クラスメイトのうち英語が秀でているネイティブたちも、同じ顔をしていたので、ほんの少し安心する。「Any question?」と教授に言われ、誰かが「What do you mean by equasion?」(Equasionにするって、どういう意味ですか?)と尋ねた。教授は「Google it」(ググれ)とだけ言った。(これは教授の口癖でもあり、わたしたちの合言葉にもなった)
教授に単語の綴りを尋ねると、彼は「はあ」と言いながらホワイトボードに綴りを書いてくれた。その文字をスマホに打ち込み、Google先生にお伺いをたてる。出てきたのは「数式」という和訳だっだ。
「数式」
余計に意味がわからない。
初めにから1章までを数式にする?どういうこと?
もしかして、他にも意味があるのかと何度調べてみても「数式」しか出てこない。ネイティブを含めた全員が、頭の中にハテナを散りばめたまま、その日の授業は終わりを迎えた。
わたしたちの一つ上のクラスでは、アカデミック・イングリッシュ入門の講義内で footnote や quotation の書き方をメインに学んでいた。つまり、論文における脚注や引用の書き方だ。当時の論文では APA style とよばれる引用・脚注の書き方が主流だった。上のクラスの人たちが日々学んでいたのは、論文を書く際に引用したり、参考にした学術書をどのように記載していくのかのルールについてだった。出版社や本のタイトル、著者の名前をどの順番で、どのように書くのか。文中引用する際は、どのようなルールで引用するのか。脚注の書き方、などなど。上のクラスの人たちは、コンマの位置ひとつですら採点される厳しい先生のチェックに、みんなノイローゼ気味だった。けれど、わたしたちのクラスでは、教授はそういった「論文を書くための方法」は一切教えてくれなかった。そもそもアカデミック・イングリッシュ入門は、そういうことを教えるための授業のはずなのに。
ある日、業を煮やしたクラスメイトの一人がそのことを教授に抗議した。教授はいとも簡単に答えた。「APAは、そもそも理系の学会において使われている引用スタイルで、今はそのスタイルが主流になっていると言われてはいるけれど、実際のアカデミックな場においてはそんなことはない。君たちはそもそも文系なんだからAPAにとらわれる必要はない。そもそも引用や脚注についての書き方について学びたいなら、図書館に行って、数冊、自分が好きな学術書をピックアップして、それらの本の脚注の書き方や引用の書き方を見比べ、自分が好きなスタイルを選べばいい。ひとつの論文の中で、一貫したルールに沿った脚注・引用スタイルがあればいいんだから、わざわざ高い授業料を払って受けているこの講義で、そんなことを教える必要はない」
わたしたちは全員、黙り込んだ。
そうは言っても、「学術書を数式にするっていうのも、なかなかに意味不明だし、時間の無駄としか思えないんだけれど」。みんなの心の中で、さまざまな言語で、同じ思考が浮かんでいた。
教授の言っていた「数式」という意味は、15回ある講義の10回目くらいまで、みんなにとって謎でしかなかった。教授は「数式にするんだよ」としか言わなかったから、謎は深まるばかりだった。毎回のエッセイを提出するものの、みんな「数式」の意味を理解していないから、それっぽいものを書くしかできない。教授も業を煮やしはじめた。はじまって10分でクラス強制終了を言い渡され、クラスから全員が追い出されることも当たり前の光景になりつつあった。
そんなある日、教授がホワイトボードにもたれながらクラスに尋ねた。「いい論文とは、どんなものだと思う?」
「命題と根拠がしっかりとあり、根拠がしっかりと命題をサポートして、最後には命題が疑いの余地のない事実であると、読み手を説得させるものです」
クラスの中でトップ・ネイティブのシンガポール人の子が答えた。というか、当時のわたしには、彼の強すぎるシングリッシュ訛りはまったく聞き取れなかったから、今にして思えば、そんなことを言っていたんだろう、という推測でしかないのだが。
教授は言った。
「そんなものは、言葉を使えるようになった猿にでもできる。本当の論文とは、そんなものじゃない」
そして、教授は、わたしたちが文字通り、日夜頭を抱え、ときには悪夢となって夢にまで出てきた、あのテキストを手に持ち、掲げた。
「本物のいい論文には、美しさがある。物語がある。論文でありながら、小説のような表現力がある。それでも、それは小説にはならない。論文であり続ける。そんな文章を、どうやって書くか。よい論文とは、小説のように美しく表現力でもって命題や状況・現象を綴りながらも、種から芽がでて、枝葉が生まれ、そして最後に花が開くように、一連の明確かつはっきりとした筋道がある。本物のいい論文、というかすべての文章は、どれだけの表現力を持って書かれていたとしても、それをすべて数式に落とし込めるシンプルさがある。最初に、仮説が提示される。X=Yだ。この仮説を実証するために、Xとは何か、Yとは何か、という新たな数式や定義が、章ごとに展開されていく。章の終わりごとに、〇〇=XXというスッキリとした解が提示される。これらの解が折り重なり、あらたな数式を作りはじめる。数式は複雑になっていく。けれども最後には、必ずX=Yという、潔く、シンプルな解にたどり着く。このX=Yを証明するために不要な表現はすべて削ぎ落とされ、X=Yの証明に必要な情報は、すべて美しくシンプルな数式の中に存在するよう、緻密に場所・書き方・順番などが調整され、整然と並べられる。良い論文、そして良い文章とは、必ず、それをすべて、数式に落とし込むことができるものだ」
そのとき、わたしはやっと、教授がこの10回の講義をとおして私たちに何をさせようとしていたのかを理解した。わたしの他に、このことを理解できたのは、はじめ、シンガポール人のクラスメイトだけだった。その日から、わたしたちは1940年代のベトナムの経済状況について述べた学術書の「はじめに」を一文ずつ、数式に置き換えていく作業をおこなった。みんなの前で、ホワイトボードに数式を書いていく。キーとなる単語を抜き取り、「これをXとする。こっちはYとする」などと定義していく。そして、それらの単語の関わりを、数式に落としていく。「X=Y」「Z=N<S」のように。数式はどんどん複雑なものになっていく。キーとなる単語をしっかり見極められるかも重要だった。また、それぞれのキーとなる単語の関係性と、その文章の中での立ち位置をしっかりと理解できていることも大切だった。でないと、数式は章の終わりに、立証することができない、出鱈目なものになってしまうから。
結局、15回の講義をとおして、わたしたちのクラスはこの本のたった3ページしか進めることができなかった。1章までどころか、「はじめに」の1/10までしか進めなかったのだ。それでも、教授は満足そうだった。
このときに教授に教えてもらったことは、その後12年間、わたしのライティングを影から日向から支えてきてくれた。誰かの文章を校正するときにも、この考え方がわたしの指針となってくれた。
良い論文とは、小説のような表現の美しさ・豊かさがありながら、そのすべての文を数式に落とし込める緻密さと筋道だった理論がある。そして、これはきっと、「良い文章」にも当てはまることなのだと思う。もちろん、本当にすべての文章を数式に落とし込んだことは、自分の過去の論文や他者の論文・小説を含めて、ない。実際に数式に落とし込もうとしたら、きっとわたしの文章はいまだにめちゃくちゃだろう。それでも。この教えが頭の片隅にいつもあるからこそ、わたしはこうして、文字を綴り続けることができているのだと思う。きっと。