プレイアブル019『伝えたいこととカンタンには伝わらないこと』
ほんとは、みんなが幸せになれたらいいなと願いながら伝えたいことがたくさんある。だけど、かつてトンチンカン、独りよがりと家族からずっと言われて続けてきたことがいつも頭の中をこだましている。大人になってからも伝えたいことを伝えるのは恐怖であり、独特な感性だね、素敵だね、と言われても心の底から信じてポジティブに受け取ることがなかなか簡単には出来ない。人から笑われるたびに私は傷つくし、私はトンチンカンで独りよがりな私であると、何故かネガティブな解釈を自分で選んでしまう。もちろん何も悪いことはしていない。むしろ人の役に立つことは大好きだし、人の笑顔が見られないことはしてはいけないと思っている。だからこそ、人からトンチンカンと言われ、独りよがりと言われれば、そんな自分を肯定できなくなってしまう。真面目に真剣に考えてるけど、上手く伝わらない。でも、そういうものなのかな、と少し寂しくふてくされてしまうこともある。ただただ無条件に共感してくれる人が周りにいない、という状況は続いており、いつも気づくと自分にダメ出ししてしまうことが少なくない。
自分で自分を心の底から信じて、共感してあげたら、私は誰とも闘うことなく、いつか世の中の役に立てるのだろうか。
時々、色々なことを閃く。まだ世の中にないもの。こんなものがあったらいいなぁ。どうしたら作れるかなぁ。という夢物語みたいなお話し。かたちのないもの。だけど、そればっかりを夢中で追いかけてると地に足が着けられなくなる。論理はどこにもなく、身体の反応から推測する仮説だらけ。実証は自分の体の反応だけでしかまだ出来ない。そもそも、私自身の『言葉』に対する感受性が身体の反応として大きすぎて困っていることや、『言葉』1つで、イメージできる世界や見え方が全く違うものになってしまうため、それに上手く対処するための努力というか、なんというか。本当に『て、に、を、は』のような助詞1つでさえ、言うこと聞くものが全く違うもの私には感じてしまうのだ。本当に困っている。同じような悩みを持っている人、対処しようと奮闘しようとしている仲間は他にいるのだろうか。どうやったらその仲間に出会えるのだろうか。こんな細かくて非効率的なこと、本当に続けていて役に立つのだろうか。自分自身が当たり前に悩んでいることを相談しても、考えた事なかった、と返事がかえってくる事がほとんどで。
あぁ、今日はとにかくポジティブな言葉や気持ちが出てこない。でも、毎日書くと決めたから、書く。自分の日記や紙のノートに書いていただけの時は、今回のように気持ちがフラットでなくなった時にいつの間にかノートが書けなくなっていた、、と10日くらいしてやっと気づくようなことが常だった。だから、ちゃんと、自分自身をモニタリングするためにも人前に見えるように書いている。恥ずかしくても、情けなくても、書く。ありのままを書く。
深呼吸して気づいたのは、そもそも『プレイアブル』というテーマで書き始めたこのシリーズの趣旨がここ最近少しズレてきたかも知れない、ということだ。
溢れだすままに書いてみよう、という取り組みは途中から意識下に上がってきた良きものであったが、フォーカスがプレイアブルというより『その時の感情をありのままに書き留める』という刹那なところに自分の自覚のないままに向かっていたかもしれない。ここでは、自分自身の複雑で特殊な性質について自己認識を積み重ねて『自分証明書』を作ることを目的に、自分がプレイアブルさを感じるものは何か?という趣旨で書き始めたので、今後少し視点を修正しようと思えた。
また、軸をブラさずに芯をとらえ続ける為にも、1週間に1回など、一定期間内に振り返りをすることは必須なのだなと体感。
原点回帰をして、そもそもの趣旨に沿っているか、または書く目的がより明確になったりしてきてはいないか、はじめのテーマで書き続けたいか、それも少しテーマを微調整したいか、常に一定期間でリフレクションとしての自己記録も大切にしていくと良いのかも知れない、と気づく良いきっかけになった。
今日から、また仕切り直していこう。