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波の音を聴いていた#6(最終回)

 次に気がついたとき、自分がどこにいるのかすぐにはわからなかった。いつの間にかすっかり眠り込んでしまったのだった。ぼんやりした頭で時計を見ると、もう夜の11時をまわっていた。夕食は断っていたのでずいぶんお腹が減っていた。
 太鼓のくぐもった音と、三線の響きと、指笛の高い音が遠くから聴こえてきた。ああ、祭だった、リィ坊が踊っている、と思った。
 沖縄の祭はいつまでも続く。離島では一晩中終わらないことがほとんどだ。これから行っても楽しめるし、リィ坊と合流もできるはずだった。けれど、身体を動かそうとする気力が全く湧かなかった。あれ、変だなあと思って起きあがろうとすると、ため息とともに力が抜けてそのまま伏せた。まるでここ最近の疲れがいっぺんに出たみたいだった。
 何度か試したが、起きあがろうとするたびにため息と脱力を繰り返すばかりだったので、もう祭に行くのを諦めた。
 諦めたら途端に気分がよくなるのを感じた。
 仰向けになって天井をぼんやり見ながら、遠くで響く祭り囃子を聴いていた。心地よい気分のまま、リィ坊の、世界一のカチャーシーをまた想った。

 翌朝、リィ坊が迎えに来て、帰りのフェリーに乗った。本島までの道すがら、僕らはほとんど話さなかった。リィ坊は徹夜だったらしくデッキのベンチで寝ていたし、僕は久しぶりにフラットな、とても落ち着いた気分だったのだ。
 泊港に着くと、リィ坊は、僕の方を向いて大げさにあくびをして、
「ニーブイ、カーブイ(眠い)」
と言った。それから僕の返事も待たずに
 「じゃあね、オサダ〜」
と言うなり背を向けて歩き出した。

 しばらくためらった後、遠ざかるリィ坊の、細い背中に向かってやっとの思いで僕は叫んだ。
「リィ坊!」
 するとリィ坊は、振り返りもしないで、両腕を大きく挙げたかと思うと、刹那、美しく広げた手のひらを魔法のように宙に舞わせた。

 トカシキの海から30余年たった。あれからリィ坊には会っていない。港で別れてから数年後、26、7才のころだったか、一度だけ手紙が届いた。結婚して子どもも生まれていろいろ大変だと、世界一下手くそな字で書きなぐってあった。字間ゼロの上に、筆圧の強いくせのある文字がごちゃごちゃ並んでいた。ゆっくりと指でたどった。
 急に、手紙に書かれた文字が、眩しい白で埋めつくされた。涙がポタポタ手紙の上に落ちた。トカシキの風景が、真っ白な世界の中で青く反射するガラスのかけらのようにキラキラ舞い散って、目の前がクラクラした。胸が苦しくなった。そして何かでいっぱいになったが、その何かが何なのかはわからなかった。ただ胸が締めつけられたのだ。それは甘い痛みだった。それは何日も続いた。
 だから僕は返事を書かなかった。

 いま、こうして本土のモノトーンの海辺で、あの時と同じようにひざを抱えて海を見ている。砂浜は白くないし波打ち際もよどんでいて、波の音もトカシキのそれよりはるかに粗雑だ。
 けれど、こうして目を閉じると、トカシキの風景よみがえってくる。リィ坊の顔や、声や、それからあの華奢な後ろ姿も。
 海は世界のあらゆる所につながっていて、そんな世界の一端に、あのころのリィ坊と僕とがひざを抱えて海を見ているような気がするのだ。
 リィ坊と海を見ていたとき寄せていた波が、30年以上かかって、僕のもとに返してきていると思った。この波のむこうの、もっとむこうの、その果ての、もっともっと果てに……。

 リィ坊のカチャーシーは、世界一。

 三線の柔らかな旋律と陽気な指笛の音色が、波のささめきのあわいに聴こえたような気がした。あたたかく、深い深い悲しみが、今度は懐かしく、甘い甘い悲しみとなって、再び僕をおとずれてくれた。

  私の耳に、その夏の声が残り、
  私の瞳に、その夏の身振が残る。(堀口大學「夏の想ひ出」)

 その悲しみにうっとりしながら、波の音を聴いていた。

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