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子を授かった直後に観た映画は、身も凍るネグレクト・ホラー映画だった『来る』(2018)

うつからの回復期、念願の赤ちゃんを授かったと思った矢先、それと知らずに見た映画が、じつは「人の親」初心者にとって、この上なく恐ろしい作品だったというお話。



子供を授かった喜びの中、突きつけられた刃

この映画を鑑賞したのは2020年。ちょうど妻のお腹に新しい命が宿り、そのことを知った後すぐのことでした。
妻との子供は念願であり、私はかつてない喜びの中にいました。

さて今回は、その喜びも冷めやらぬうちに観た映画が、よりにもよって『来る(2018)』だったという話です。

前々から、原作小説『ぼぎわんが、来る』の評判は耳にしていましたし、中島哲也監督にはその昔『下妻物語』や『嫌われ松子の一生』で楽しませてもらったことがありましたので、観たい映画だとは思っていたんです。

妻がホラー映画好きですので、じゃあ、今日はJホラーを観ようかと、気楽に再生したのですが…

その内容は、これから親になろうとする我々にとって、強力な戒めになりうるような作品だったのです。少なくとも、浮かれて、地に足のつかない気分だった私の頭に冷水をかぶせ、気を引き締めさせるには、十分な効果のある体験だったのです。


※以下、ネタバレがあります。


親になる予定の人にとって、もっとも恐ろしい映画

本作はいわゆる『リング』のような、怨霊や化け物のたぐいが脅威となるタイプのホラー映画ではあります。
しかし、必ずしもそういったオカルト要素が主題とはなっていません。

むしろ、「若い夫婦と、その幼い子供」の関係を中心にしたサスペンスに、ホラー要素が調味料として入っているような趣です。
そして、歪な家族関係がはらむ危うさや、親に対してその代償を払わせる力学的存在として、目に見えない怪物「ぼぎわん」が登場する、といったほうがしっくりきます。

「ぼぎわん」自体は、恐ろしい力を持っている存在なのは間違いありませんが、ほぼ具体的な姿は見せず、人語を解し、心理を弄んでくる割には、何を考えているのかは今一つ分かりません。「よくわからない力の発現」という感じで、貞子や伽耶子のようなキャラクター性は皆無です。(ですから、ぼぎわんは今後も始球式に呼ばれることはないでしょう。)

〈閑話休題〉


思うに、本作のメッセージ性としては、「人は見たいものしか見ず、自分の都合の良いように物事を理解する。そして、その犠牲になるのは、いつだって罪のない子供である」といったところでしょうか。

このテーマは最初は隠されており、中盤以降、『羅生門』的に、複数の人物の視点から語られることによって、徐々に種明かしされていきます。

序盤から、明るく楽しげな結婚式、そして絵に描いたような「理想的な家庭」を見せながらも、画面の端々から伝わる、非常に俗っぽく薄ら寒いものと意図して描かれている感覚は伝わるので、鑑賞者は微かな違和感を覚えながら引き込まれていくことになります。

そして、徐々に明かされる全貌。

妻夫木聡氏の演ずる父親は、「周囲から理想的な父親だと思われたい」という自己愛的な願望が第一で、実際の育児に向き合わない。

黒木華氏の演ずる母親は、そんな夫に内心で愛想をつかし、夫の死後は我が子を放りだして、独りよがりな「自分の人生」を歩み始める。

とくに夫の運営している「育児ブログ」の、あまりにも軽薄で、一切の自省のない描写は念入りにされています。そのため、観客はこの夫に対して激しい嫌悪感を感じることになります。

当人の知覚する「良い家族」「良いパパ」という認識と、第三者視点から見たときの実態とのギャップがおぞましいのです。

彼の歪んだ現実認知はブログを通じて「パパ友」という名のエコーチャンバーを獲得し、「イクメン」のようなファッション的な呼ばれ方をすることで、さらに増幅していきます。

楽しそうに名刺まで作って悦に入っている様は、強烈な自己愛と、その裏返しの醜さを感じさせ、救い難いものを感じます。

…ちょっと待った!

当の私は、こうしてブログを書く人間で、しかも数か月後には父親になる予定ではないですか。

明日は我が身か。

あるいは自分も彼に似たような勘違いに陥って、無自覚にネグレクトをする父親になってしまう可能性があると考えれば、こんなに恐ろしい映画があるでしょうか。
私は茫然としながら、なんとか妻夫木聡氏の姿を、反面教師として胸に刻みこんだのでした。


子供もまた、人という獣である

上記のように本作では、親の側の掘り下げは行われるのですが、もう一方の当事者である子供の精神的問題には、ほとんど踏み込んでいません。

最終的に、夫婦の子供が物語の中心におさまってくるのですが、親子の関係性がメインテーマの映画にしては、子供側の精神描写がほぼありません。

なんだか、子供は無条件に罪のない存在とされていて、子供自身の感情や思考を深堀しないので、ちょっと子供というものを単純化、マクガフィン化している気配を感じます。

この父親の醜さの中核は、「現実の子供自身に向き合おうとしない」姿勢にあったと思います。
であるならば、真に向き合うべき相手だった、子供の存在を掘り下げないのは、片手落ちのように思われます。

災厄を呼び込んだ責任は、100%親にあるとしても、ぼぎわんを必要としたのは子供自身の「愛されたい」「必要とされたい」という人間的なエゴだったと思うからです。

映画的には、そのことが明確になる中盤以降には、すでに派手な心霊バトルに振り切れているため、問題なく楽しめるのですが、なにせ「妻夫木聡」が私の心に刺さりすぎた為か、テーマが置いてけぼりになったような気分にはなりました。


創作物における子供描写の難しさ

これはおそらく、創作作品における「幼い子供」というものの扱いの難しさがあるのかと愚考いたします。

幼い子供は、しばしば「天使」などと表現され、純真無垢でまったく罪のない存在だと、漂白されたイメージで語ることもできてしまいます。

しかし一方で、子供の実態は、可愛いだけではありません。
血と肉をもつ生き物であり、獣性を持ち、生まれつき人間性を持ってもいますから、人間のもつ様々な業をも等しく持っています。(または、年齢や経験とともに徐々に業が発露されていきます)

そういった子供のもつ混沌に向き合わず、誰かがビジネスや政策のために作り出したような、まやかしのイメージを信じ込み、酔い痴れてしまったことが、本作の父親の反省なのだと思います。

長々と書いてしまいましたが、本作からは、ことの元凶となった親や大人たちや、現代の風潮に対する批判精神は感じとれるのですが、一方で後に残された子供、つまり、事件後も歩み続けなければならない者たちに対しては、ちょっと無頓着な気がするんです。

とはいえ、ここに切り込み始めると、小説というより育児指南書めいてきてしまいますし、家族の数だけ家族観も多様ですから、きっと扱いが難しいのでしょう。

あなたは『オムライスの国』を受容できるか?

鑑賞者にとって、本作の評価の明暗を分けるのは、つまりラストの『オムライスの国』を受容できるかどうか、に集約すると思うのです。
私としては、「中島監督映画のノリ」や「ホラー映画としての終わりのサイン」としては理解しつつも、オムライスの国については否定的です。

なぜならオムライスの国こそが、先述のような子供の単純化され漂白された描き方に、もっとも強く違和感を感じるポイントだからです。

小さな子供とはいえ、死屍累々の大事件の後、無邪気にオムライスの夢を見ているというのは、ステレオタイプとしての「無垢な子供」にされてしまっているのではないか?

彼女は親がいなくなり、さらには自ら必要とした「ぼぎわん」という遊び相手までもが去って、何も感じないのでしょうか?

また、純真な子供が「好きなものに囲まれる、楽しい夢をようやく見られた」という意図の描写だとすれば、そのイメージが商業コマーシャルのような映像というのは、ちょっとグロテスクに感じられなくもありません。
(私自身が、素直でなく気難しい子供でしたので、無邪気なタイプの子供のことをわかっておらず、穿った見方をしているの?かもしれませんが)

子育て当事者としては気が引き締まり、映画ファンとしては映像体験に歓ぶ

以上のように、父親になる予定の私には、一部描写がとんでもなく刺さった作品でありました。

一方で、映画ファンとしての私は、映像体験に大いに歓ばせてもらいました。

のちに私は原作『ぼぎわんが、来る』も読み、何度も読み返すほど好きになりましたので、この映像体験という要素こそが、映画版の真骨頂だったことを実感しています。

日本の山の自然、毛虫、水滴、摺りガラスの光など、ものすごくクリアな映像に、美しいライティングと撮影。
それが、「ぼぎわん」の存在をうまく描き出しているように思われます。ぼぎわんは、白昼堂々と会社に訪ねてきたり、電話をかけてきたりしながらも、まるで実態のつかめない存在だからで、これらの描写が噛み合っていて気持ちが良いです。

また、比嘉姉妹による霊能力描写も、不可視の力での拮抗や、心に付け入ってくる化け物との戦いの映像化として、非常に優れていたと思います。
終盤、全国から終結する多数のシャーマンの皆さんには、お祭り的なダイナミズムを感じて、思わず笑みがこぼれました。
いわゆるJホラー的な表現とはまるで毛色が異なりますが、こちらの路線も良いものだと思います。

以上の通り、とくに親になる予定の方や、小さなお子さんがいる方に観て頂きたい作品でした。
ただし、お子さんが見ていないところで、ぜひ。


番外:『比嘉姉妹シリーズ』のファンと化した件

先に原作『ぼぎわんが、来る』を読んだと書きましたが、実はこちらが私にとってのメインとなりました。
これがシリーズ化されているのを知って読み進めた結果、私はこのシリーズにハマってしまいました。
小説が面白くてシリーズを読み漁るなど、なんて久しぶりの体験だったことでしょう。

私のような理屈好き、神秘好きの人間にとってはあまりに面白く、今のところ書籍化されたシリーズ(2024年9月現在、『すみせごの贄』まで)はすべて読んでしまいました。

1作目である『ぼぎわんが、来る』の頃こそは、「琴子の名前にビビる田舎のチンピラのような悪霊」という決定的に無粋な描写があったりもしたのですが、シリーズを重ねることによって、そのようなあからさまな「霊能力の強さアピール」などはする必要がなくなり、結果としてどんどん洗練されていきます。

ホラーやオカルト分野のオタク的知識を、ある程度前提にした題材が多いのですが、しかし毎回新しいタイプの体験をもたらしてくれます。

この比嘉姉妹シリーズはもっと布教されるべきだと思っておりますので、その魅力については別項で書きたいと思います。
もしご興味がおありの方はぜひ。


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エモくない映画分析 / 股旅ナスカ
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