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怪獣教の布教映画、そしてトンデモ核描写。『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』

ゴジラマニアの監督が偏執的な情熱をもって作り上げた『異形の映画』。
パラノイア的な巨大なカタルシスに圧倒されるが、VSシリーズの負の遺産を受継ぐ側面も。

※ネタバレあり




常軌を逸した映画

いきなりですが、この映画はまったく常軌を逸しています。

娯楽映画を装ってはいますが、やっていることは「ゴジラ漬けのトリップ映像集」のようなもの。つまりは、監督の妄執に付き合わされる132分です。

本来なら監督個人の妄執に過ぎないはずですが、本作は並々ならぬ情熱と莫大な予算に裏打ちされ、圧倒的なスケールで迫ってきますので、やたらと説得力を伴っています。
もはや観客は、「なんだこのノリは?」と困惑しながらも、面白がるしかないのです。

モンスター映画としても、ゴジラ映画としても特異な映画、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を振り返っていきましょう。


長年にわたって熟成されたゴジラ愛が爆発

私は、映画というのは、多くの人間が協力して作り上げるタイプの芸術分野だと思っています。
ですから、映画の内容や性質を、監督という個人の人格や作家性によってのみ説明しようとする論法は、あまり好みません。

しかしながら、本作は例外です。
あからさまな「ゴジラ狂」映画であり、その狂気の源泉は、明らかにマイケル・ドハティ監督だとしか思えないからです。
今回ばかりは監督のせいにするしかありませんので、本作が仕掛けてくるギミックはすべて、ドハティ監督の意思であると解釈することにして、話を進めます。

ドハティ監督の業の深さを測るためには、彼のインタビュー記事をどれでもいい、ひとつ読んでみれば分かります。この人、尋常ではありません。

もちろん、日本にも「濃ゆいゴジラファン」は存在します。ゴジラは歴史があり、ノスタルジーをともなうIPであるし、ファンには博識で雄弁な方も多いのです。
ですから、ドハティ監督が、ただ濃ゆいゴジラファンであれば、我々が狼狽することはありません。

ドハティ監督の凄さは、そういうファンとは隔絶しています。
なにしろ、『子供の頃にゴジラを見てビジュアルショックを受け、その熱に浮かされたままにキャリアを積み、ハリウッド大作を任される映像作家に上り詰めた』のです。

映画を通して送り届けられる熱気は、狂信者のそれといっても過言ではありません。
その彼が、崇拝の対象であるゴジラを、自分の思い通りに描く。世界設定からプロットまで、ゴジラを引き立たせるためにお膳立てされた舞台装置でしかありません。

いちおう本作は『ゴジラ(2014年)』の直接の続編ということになっているのですが、実際には作風から様変わりしています。
ドハティ監督の価値観により、古今東西の旧作からも『こうでなくちゃ』と思う部分は継承し、それ以外は自分の趣味で塗りつぶした、かのようです。

たとえば本作の冒頭は、ゴジラの咆哮から始まります。
言うまでもなくこれは初代リスペクトでありましょうが、その声色は前作と大きく異なっています。
初代風の重低音よりも、平成ゴジラの、あの特徴的な甲高い声に非常に近い。
これだけで『あ、この映画は大丈夫だ』と安堵させる説得力がありました。
かくして、お膳立ては十分。監督は長年溜まりに溜まった妄執を解き放ち、自分のゴジラ主義を世界に向けて発信したわけであります。

本作が世に問うたのは、(ものすごく要約すると)2つのテーマです。

曰く、

  1. 怪獣は神か、それとも巨大生物か

  2. 「キング・オブ・モンスターズ」は誰か

それぞれのテーマについて、さっそく解説いたしましょう。



Q1. 怪獣は神か、それとも巨大生物か?


A. 神に決まっている!以上。


そう、人智を超えた存在である怪獣は、もはや神。しかも、いにしえの荒ぶる神です。

本作では、かつて存在した古代文明において、怪獣たちは人間にとっての崇拝対象であったことが示唆されています。
いまは深い海底に没した、巨大な都市と神殿。ゴジラは古代文明が滅びた今も、そこを住処にしています。
今回描かれた海底都市のイメージソースの一つはルルイエでしょう。ゴジラは永き眠りから目覚め、深海から浮上してきた「旧支配者」というわけです。

また、本作劇中では怪獣のことを『モンスター』ではなく『タイタン』と呼んでいます。これも、ギリシャ神話のティーターン神族に怪獣を重ねているゆえの言葉選びなのでしょう。
かつてこの世を支配した、巨大で、原始的で、矮小な人間のことなど気にも留めない巨神です。

このように、本作では『怪獣の神格化』という前提を、かなり念入りに印象付けます。
前作の時点でも、神格化の兆候は見られたのですが、本作はそれをさらに推し進めました。

前作でエドワーズ監督は、ハリウッド的なリアル志向を示しつつ、『怪獣はただの巨大生物ではなく、人間の力ではどうにもできない、災害のような畏怖すべき存在である』という日本怪獣映画の常識を、世界市場の観客に浸透させるために心を砕いていました。(なにせ、『GODZILLA(1997)』という前例がありますから、ここは気を遣うべきポイントです)

そして本作では、ついに怪獣は「畏怖すべき対象」から、「崇拝すべき対象」にランクアップ。
ドハティ監督の祈りが聞こえます。
人類は、自らがこの星の支配者だという勘違いを捨てよ。
真の支配者であるゴジラの前に傅き、崇めよ、と。



Q2. 「キング・オブ・モンスターズ」は誰か?


A. ゴジラに決まっている!以上。


「誰が怪獣の王か?」
正直、そんなことは、観客も登場人物も、誰も質問していません。

「怪獣の王」は、前項で分析した「神格化」とは異なり、ストーリー上で語られた重要テーマでも何でもありません。
たしかに、ギドラが他の怪獣に影響を与え、集団での狩りをしているこではないかという言及はありましたが、人智を超えた生物同士の社会行動であるはずのそれを、「ギドラが王だ」という、人間主観の単純な観念にすり替えています。

これも、迷える観客たちにゴジラの素晴らしさを布教するための前振り、自作自演、自問自答であります。
つまりこの問いかけ自体、あらかじめ結論の決まっている出来レースなのです。

そして登場人物のうち、「誰が怪獣の王か」を気にしているのは芹沢博士だけです。おそらく、彼には監督が憑依しているのでしょう。
未曾有の危機の中にあって、彼だけは別世界にいます。

ギドラはじつは宇宙から来た生物かもしれない、という驚きの新事実が判明し、
「怪獣の中でもギドラだけは地球の生態系の外にいる存在ということか」「このままでは地球上のすべての生物が危ない」
あまりの危機の大きさに、対策を話し合う面々。

そのとき芹沢博士はというと、吐き捨てるように、一言。
『偽りの王か!』
誰ひとり、「ギドラが王かどうか」なんて、まったく話題にしていないのに。
そして、周りはこの発言を見事にスルーするのです。

このくだり、あまりにシュールで笑ってしまいました。一体何を見せられているのか。
もしかして、監督の日記が数ページ、脚本に紛れ込んだのではないか?と思ってしまうほどです。

ともかく、観客も登場人物も、誰も質問していないこの質問に対して、本作は全力で答えを提示し、証明をしてくれます。
すべての要素がただ一点の結論のために用意され、伏線が回収され、ラストで高らかに宣言するのです。

『まことの怪獣王は、ゴジラである!』と。

観客としては、『うむ、何だかわからんが、ゴジラはすごいんだな!』と、すっかり洗礼を受けた気分になって、劇場を後にするのです。



平成VSシリーズの功罪を受け継ぎし者

さて話は変わって、旧作との関わりについて少し書きます。
多くの方が指摘するように、本作は日本のゴジラシリーズの中でも、とくに「平成VSシリーズ」に大きな影響を受けていると思います。

80年代~90年代にかけて、毎年のように正月映画として公開されていた、あのゴジラ。
今や新宿東宝シネマズにおわす、あのバージョンのゴジラです。

  • 怪獣が人智を超えた特質を持っている点。

  • 人類が超兵器を持っている点。

  • 人類側に怪獣との交信、制御を試みる勢力が存在する点。

  • 国際テロリストのような組織が介入してくる点。

  • そして、最終的に決戦の舞台が誂えられ、全員集合の大怪獣バトルに全力を注ぐ形になる点

このVSシリーズっぽさは、今回打ち出されたテイストにもマッチしているとは思うのですが、一方で本作はVSシリーズの負の側面をも受継いでしまっています。

VSシリーズが放棄した核描写の功罪

問題は、核についての描写です。
具体的には、VSシリーズで見られたファンタジー的な「核の恐怖を矮小化する設定」が、より酷くなって復活してしまっているのです。

言うまでもありませんが、核は強力です。
核分裂や核融合時に膨大なエネルギーを生み、兵器に使えば、高熱と爆風は通常の火薬などの比ではありません。
しかも、爆発時に発せられる強い放射線は、生物の細胞やDNAを直接破壊することで致命的な影響を与えたりもしますし、放射性物質が地表に降り注げば、長期にわたって環境を汚染し、周囲の生態系や人間に被害を及ぼし続ける。

そのような恐ろしい核兵器というものに対して、それを受けてもなお生き残り、人間に代償を払わせにくるというのが、本来のゴジラのもつメッセージ性でした。

しかし、それがVSシリーズになると拡大解釈され、「ゴジラは体内に原子炉を持ち、核燃料を食べたり、放射線を吸収してエネルギーにしてしまう」というトンデモ設定が追加されたのです。

この設定はきっと、「ゴジラとは、まさに人智を超えた存在、核の恐怖の化身だ!」と言いたいのだと思いますが、あまりにもSF的な理屈が無さすぎて、ただのファンタジーになってしまっています。

そして結果的には、反核の意味においても逆効果です。核の威力や、それで身を焼かれたゴジラの苦痛や憎悪を矮小化することにもなるからです。

さらに言うと、抗核バクテリアやカドミウムを撃ち込んでおけば被害なし、OK!のような設定は、根本的に核の恐怖そのものを減衰させてしまいます。こうした矮小化は、VSシリーズが娯楽性を突き詰めるあまりに、反核のテーマを放棄した結果だと思います。

そして、その行き着く果てが今作です。
「ゴジラの体力を回復させるために、ゴジラの目の前で核兵器を使う」という暴挙。

たしかにゴジラは核の申し子ではあるかもしれませんが、いくらなんでも、核爆発で体力が回復するというのは謎理論すぎます。
そして、劇中のイメージとしては、『核兵器はゴジラにとっての精力剤』くらいの存在にされてしまっているのです。

私は広島で生まれたので、いわゆる原爆・平和教育を受けてきた人間です。
そして2011年、福島原発事故のときの報道を見て、多くの日本人が核というものに対してあまりにも無理解であることにショックを受けたものです。
普段は、我が国は唯一の被爆国であり、核の恐怖を知っている国民だと自負しているのにも関わらず、です。

無理解ゆえに、核のことを単に「何だかわからないけど怖いもの」「触らぬ神に祟りなし」というような、オバケのたぐいと同レベルの認識に押し込めて、わけも分からず右往左往するのみ。

その原因の一端は、安易で矮小化された核描写が、世界的に映画などの中で蔓延してきたことにあるのではないか、とも思う次第です。
こうした点は、2019年の映画としては残念なポイントです。

まあ、「ゴジラ=反核の属性を持ったキャラクター」という概念の形骸化は今に始まったことではありませんから、悲しいことですが、芹沢博士の広島についての語りや懐中時計のエピソードは申し訳程度のエクスキューズだと受け取りましょう。


モンスターヴァースはこのテンションを維持できるのか

だいぶ脇道にそれてしまいましたが、突き抜けた魅力をもった特異な映画である本作は、人生を豊かにしてくれる作品に間違いありません。

とくに目立つ長所としては、コンセプトアートをそのままスクリーンに持ち込んだかのような「絵心」が傑出している点です。
その点では既存シリーズのどの作品と比べても出色の出来で、まさしく怪獣を崇めるための、ロマン主義の宗教画のような映像が拝めます。

そもそもジャンル問わず、これだけの個人的な感情を熱波のごとく浴びさせてくれる映画体験は希少だと思います。

モンスターヴァースは、次作以降ら残念ながらこの路線を継承しなかったので、結果的に本作の特異性はより際立っています。
映画史上に残る特異点として、見物する価値のある作品だと言えるでしょう。

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