「一人っ子」とは
子はかすがい…というけれど、本当にそうだな、といつも思う。
娘がいてくれてありがたい。
夫婦関係においてはもちろん、自分の人生において。
育てているつもりが、助けてもらっているし
本人も、この3人家族の中の重要な一人として、ちゃんと自覚している。
3人の中で、1人だけ子どもなのに
当然だけど、一人前だ。
そんな我が娘のことを思って書こうと思ったら
なんだかやたら長編になってしまった!
お時間に余裕のある方、
「一人っ子」という概念や、
私が通ってきた、感じてきた、
「一人っ子」子育てのプロセスに興味のある方、
どうぞごゆっくりお付き合いください。
「一人っ子」というものへの印象
「一人っ子」という単語は…よくよく考えると、なんという言葉だろうな、、と思う。日本語には(外国語にもそういうのがあるかもしれないけど)、言葉の組み合わせと、漢字と、響きと、その活用のされ方次第で、言葉自体はシンプルなのに、意味だけは多くのものを含有しているものが多い気がする。
この「一人っ子」という言葉についても、事実を表すだけのまったくニュートラルな言葉、という感じでもなく、かといってすごく否定的、とかでもないのだけど、いろんな意味を含んで聞こえるようにも思う。
ずっと昔に読んだ村上春樹の『国境の南、太陽の西』でも、主人公が、自分が「一人っ子」であることへの強烈な自意識と、ある種の劣等感・不完全感みたいなものを抱えて、それがストーリーの柱みたいな感じで展開していくのがとても印象的だった。私が育った時代も、この作品よりやや後の世代とはいえ、「一人っ子」というものに対して、この作品で描かれる(主人公が自分自身をとらえている)「一人っ子」に似た感じの印象が、ある程度多くの人の間であったように思う。
一人であるがためにきょうだいと喧嘩したり我慢したりする経験が少ないから「わがままになりやすい」とか、逆に、きょうだいがいなくて一人だなんて「かわいそう」(両親が仲良くないから一人なんだ、とか、そういう話まで出たことがあったかなあ。前述の村上春樹の作品でもそういうことも出てきたかも)、とか。
私自身は「一人っ子」ではなくきょうだいがいたが、年の離れた兄が一人いるだけだったので、実質一人っ子のように育った面もあった。だからなのか、一人っ子に対してそういう印象を持ったことがあまりなく、むしろきょうだいの人数とかより、お姉ちゃんがいたらよかったのに、とか、妹がいたらな、とか、そんなことを思いながら育ったように思う。
でも今の時代は、その世間一般的な「一人っ子」への印象はもうだいぶ違うな、と思う。そう、私自身が一人っ子の娘を持ち、周りにも一人っ子の家庭もそれなりに多く見るにつけ、時代は変わったな、という感じがする。いや、私がいま、一人っ子を育てているから、そう思うだけなのかもしれないが。
子どもを持つということ
そもそも子どもは授かりものなので、一人だとどうだ、とか、きょうだいがいたほうがどうだ、とか、あれこれ人間がいうものではないと正直私は思う。
でも私の母は団塊の世代…付近(たぶん)の人間なので、「きょうだいはいた方がいい」という考え方の人だった。(団塊世代の人がみんなそう思っていたかどうかはわからないが)
母自身は歳の近い妹を一人持ち、大人になってからも仲が良く、よく一緒に買い物や旅行に行ったりしていたし、今でも週1ぐらいで街中で落ち合ってお茶をしたりしている。
彼女の夫である私の父が3人きょうだいであったからなのか、はたまた彼女は小学校教員で多くの家庭を見てきたからなのか、どういう理由かわからないけれど、私は母に「子どもは3人持つといいよ」と、小さい頃から吹き込まれていた。
母は妊娠はわりと多めにしているが、たびたび流産をしたり、生後9か月で次男を亡くしたりしたこともあり(その後生まれたのが私)、夢だった三児持ちに至らず、二児にとどまったことも、私にその夢を託したかった理由の一つかもしれない。
だが、思春期を迎えてしばらく経った頃の私は、その年代の男子の幼さや、その頃の父が全然家事をしなかったり(うちは共働きだったのだが、当時はまだ男性が家事をする空気が今ほど強くなかった。でも男女平等が言われ始めている頃で、それを実行していない父を私はとても批判的に見ていた)、母にあまり優しくなかったりする様子を見て、そもそも結婚ってなんなんだ?結婚しないという選択肢だってあっていいじゃないか、と思い始めていた。
加えて、末っ子として育った自分は、それが理由かどうかはわからないが、自分より年下の子とどう接していいかわからなかった。赤ちゃんがかわいい、という感情すら、よくわからなかった。小6ぐらいになると、1年生や幼稚園生のことをかわいい、と言ったり、保母さん(今でいう保育士さん)になりたい、と言ったりする女友達が多かったが、どうしてみんなそういう感情を自然に持てるんだろう、と、違和感しかなかった。
だから、ましてや自分が子どもを持つ、とか、子どもを育てる、ということが、当たり前の将来の自分の姿だなんて、どうしても思い描くことはできなかった。
今ならわかる。生まれながらにして、子どもや生き物、小さいものに対する愛着や優しさを持っている人もいると思うが、そうではない人もいて、人はある程度、環境や周りの働きかけによって、それらは培われるのだ、ということが。
ただ、私は祖母がとても教育上手だった面があったり、自分自身、勉強や習い事が好きだったこともあり、教育そのものにはとても興味があった。そして私は奇しくも教育関係の会社に就職することになった。子どもそのものに直接的に触れる場面は多くはなかったが、子どもに対する教育サービスであるかぎり、子どもに大いに関係する職に就いたのだった。
だからこそ「子どもが好きじゃない」という感覚を持つ自分にはずっと引け目を感じていたのだが、その仕事のおかげで、子どもを見る目が変わるという思っていた以上の変化があった。
その詳細もまたの機会に書きたいなとは思うが、とにかく私の子どもへの意識は、それまでの、ただの「分別のない、うるさく、わがままで、理解できない生き物」から、「可能性を秘めた人間本来の姿」へと大きく変わったのだった。
子どもを知るとは、自分を知るプロセスの一つでもあった。自分がいかに縛られて不自然に生きてきたのかということ。自分が身に付けてきた、と思っていた、いわゆる大人の分別や常識のようなものは、社会生活を送るうえでは必要なものもたくさんあったとはいえ、本当は一人ひとりに生まれながらの自由な感性や才能がそれぞれあるのに、それら常識などの概念によって、その才能や感性を伸ばし、開花させ、発揮する場所や機会を奪ってしまっていることがたくさんあると知った。そして、もしもそれらが自由に伸び伸びと発揮される場があったとしたら、それはカオスではなく、今よりももっと素晴らしい世界なのではないか、と。
まあ、私が言うまでもなく、これまでにも多くのところで、多くの人に言われ続けていることだろうけれども。
おまけに、自分が年齢と、子どもやそれに関わる人々と接する経験を重ねるにつれて、子どものことをかわいいと思えるまでに私は成長した。子どもと接することや遊ぶこと自体は相変わらず苦手だったが、子どもは人類すべてが大切にしたい、しなくてはいけない、貴重な存在だと思うようになった。そしてそれはこれまでの自分が育ってきた過程を癒すことにもつながるのだ、と。
そして晴れて私はいつしか、こんな可能性を秘めた素晴らしい存在を自分で生み出して、育ててみたい!と思うようにまでなったのだった。ただし、やっぱり母の言葉(半分呪いだねw)はずっと効いていた。そう、「できたら3人子どもを持ちたい!」と欲をかいていたのだ。
一人目にして挫折
しかしながら、実際子育てが始まってみると、案の定、、、ではなく、子育てをしてみて初めて自覚したことだったが、「キャパの狭い」私は子ども一人でもう手一杯だった。
これには夫とのパートナーシップも大いに関係していて、産後クライシスなのかマタニティブルーなのか産後うつなのかもはやわからないけれど、夫との関係も子育てそのものも、産後2,3年はとにかく辛かった記憶しかない。(この詳細は、これまた別の機会に筆を譲る…)
夫は当初、子どもは二人持つことを想定していた。なぜって?彼も二人兄弟だったのもあるし、それが最も「ノーマル」な日本の家庭の姿だったから、かもしれない。
でもあるときから、彼は「子どもは一人でいいかな」と言い出した。それを聞いて私はちょっとほっとした。あれ、私、子育てがほんとに大変で辛いと思ってるんだ…とそこで初めて自覚したほどだった。
でも、しばらくするとそんな自分が悲しくなった。こんなに素晴らしい存在を授かって育てられる身なのに。こんなに楽しめてなくて、辛いことばかりと感じているなんて。
夫の「娘が十分かわいいから、一人で満足」的な言葉も、真意はどうだったかわからないが「あなた(私のこと)には子どもは一人じゃないと、もう無理でしょう」という言葉だったようにも感じてきた。当時の夫婦関係、そして私の育児ストレスのぶちまけ度合いを思えば、それも十分考え得ることだった。そもそも子育ては夫婦一緒にやるものなのに、私だけが母親失格だと烙印を押されたようで、とても悔しかった。
赤ちゃんだった娘がある程度成長してくると「もう一人どうなの?」とか「次は?」みたいなことを無遠慮に言う人たちはやっぱりいる。「勢いでもう一人作っちゃわないと(時間空くともう新たに子ども作るのが)嫌になっちゃうよ」と。うん、わかる。きっとそうなんだろうな。
その人たちに対しては私はなんとも思わなかったが、でも一人っ子という選択をした自分がやっぱり失格なようで、辛く思うこともあった。そして「きょうだいがいないなんてかわいそうじゃない」と言ってくる母の言葉に、「私は娘にきょうだいを作ってあげられなくてダメな母親なんだ」と思うこともたびたびあった。
目の前にいる、ほかでもないこの、自分の娘が幸せかどうかが一番大事なのに、当時の私は、外側からの基準から見て、これでは娘を幸せにさせてあげられないのでは、といつも不安を感じていたのだ。(もうほんと、産後うつというか、育児ノイローゼ気味だったんですね…)
「一人っ子」の母、という自分が腑に落ちるまで
そんなわけで、私が力不足なために、娘を一人っ子にしてしまっては…という自責の念にずっと駆られていたので、やっぱりきょうだいを作ってあげたほうがいいと思う、私ももう一人ほしいと思う、と夫に話したこともあった。
一人でも子育てが大変な私だけれど、二人目はだいぶ楽だ、という話も聞く。むしろ子ども同士で遊んでくれたりするから、一人よりも二人以上いてくれたほうが子育ては楽なんだ、という話も聞く。だから、、、と。
それを聞いた夫は「確かにそういう面もあるかもしれないけど、でも、一人より二人の方がもっと大変だ、という面もきっとあると思うよ」と言った。
しかしまあ、夫の方は私の気持ちを理解はしてくれて、実際第二子づくりを試したこともあった。でももうその頃は、それ以前に私のメンタルがボロボロだった。「子づくり」だけを目的にした性行為は当然ながら楽しくないし(そもそもすでにそんな関係になっていたことが問題だったが)、それで子どもができるわけもなく、できたとしてもいい方向に進まないこともたくさんあっただろう。だからか、やはりわが家には第二子は誕生しなかった。
そこから、、、一人っ子である娘と、夫と私の3人家族、という自分の家庭の形が私の中でしっくりと来るまで、かなりの年月を要したが、夫との関係もかなり改善し、少なくとも「きょうだいを作ってあげられなかった私はダメな母親だ」「きょうだいがいない娘はかわいそうだ」という意識は、今ではほとんどなくなったように思う。
もちろん今でも、きょうだいが3人とかいる家庭を見ると、いいなあ、とは思う。楽しそうなのは確かだし、それだけの器があるママは、やっぱり素晴らしいなあ、と思う。けれど、それぞれの形で、それぞれの必然の幸せがあると、やっと納得できるようになった。
合わせて、子育ての大変さは、子どもの人数の問題ではない、とつくづく思う。自分の意識と、夫を含めた周りの協力、それに尽きると思う。
私の場合は、完璧主義だったこととか、ヘルプシーキングが下手だったこととか、いろいろあるけれど。人からみたら、不器用にみえたり、もっとこうしたらいいんじゃん、と言えることだって、当事者にとっては簡単に解決できるものではないことを、身をもって体験した。
だからこそ、外側の基準で、ましてや子どもの人数(ゼロも含めて)で、自分の存在価値を計ることだけは絶対にしてはいけないし、もしそういう人がいたとしたら、とにかくそれだけはやめて、いま否定している自分そのものを、自分がまず一番に認めてあげてほしい、と切に思う。
改めて…「一人っ子はかわいそう」なのか??
先に書いたように、「きょうだいがいないなんてかわいそう」と私の母は言った。
しかし…翻って私自身のきょうだい(兄)を考えてみると、私は兄と特別仲が良いわけでもなく、話が合うわけでもなく、母にとっての妹(私の叔母)のように何でも一緒にできるわけでもなく、しかもここだけの話、頼れる人でもなく、なんならこっちが気を遣って両親との関係を取り持ったりしてあげるような兄なのだ。今でこそもうフラットな気持ちでいるが、こんな兄を持つ自分が恥ずかしく、兄のことを人に話せない、とまで思っていた時もあった。
そんな私としては、果たしてきょうだいがいるというのが自分にとって幸福感を増すものだったか?と問われたら、それは残念ながらイエスとは言えない。もちろん小さい頃は一緒に遊んでくれて楽しかったこともあった。でも歳も離れていたためにその期間は短かったし、私に意地悪やひどいことをするとかもあまりなかったが、かといって、いてくれてありがたかった、と思うこともあまりなかった。
ただ、必然の存在だったとは思う。多動気味で約束を守れず両親に怒られっぱなし、とにかく要領の悪いところだらけだった兄を見ては、妹の私は「こうしたら怒られる」「こうすれば褒められる」「こうしたらもっとできるようになる」というのが、かなり幼い頃からわかっていた。そしてその通り行動して兄よりずっと優秀に成長した。強烈な反面教師だったというわけだ。(だからといって自己肯定感が高かったわけではなく、それはそれで歪み・ひずみがあることも後でわかった)
そういう意味では、そういう必然には感謝をしている。そしてこれもまた、家庭環境やきょうだい構成、その家や個人個人のキャラクターによって全然違うものだから、こっちのほうがいいとかどうとか、言えるものではないことがよくわかる。夫にも兄がいるが、これまた仲がいいわけでもなく、育ってきたプロセスとしては必然の存在ではあるけれども、きょうだいという存在そのものが幸福感をもたらしているのかというと、また違うように思う。
また、スコットランドで育った知人(イギリス人と日本人のハーフで、彼女もまた「一人っ子」)が、以前こんなことも言っていた。
”自分は一人っ子だったから「一人でかわいそう(きょうだいがいないとさみしいんじゃない?)」とよく言われたけれど、私は全然そんなことなかった!だって近所にいっぱい友達がいて、いつも遊んでいたから、さみしいことなんて全くなかった”(英語で話してくれたんだけど、再現できない自分が悔しい笑!)
だから、言うまでもなく、本人が幸せかどうか、かわいそうとかどうかなんて、他人が言うことではないのだ。考えてみれば当たり前のことなんだけど、子育てと夫婦関係でしんどいときって、そういうことすらわからなかったんだよね…。
「一人っ子」は大人の間で育つからこそ
娘も、前述のスコットランドの知人のようには、近所にあふれるほどの友達はいないが、同じ町内には楽しく遊べる子がある程度いて(少子化で人数そのものは少ないけれども)、小学校に上がってからは「ただいま!行ってきます!」と、学校から帰るとランドセルを置いて、すぐに友達と遊びに行く毎日だ。
子どもと遊ぶのが相変わらず苦手で、外で遊んできてくれたほうがありがたい私、そして一人の時間を何よりも大事に思う私としては、本当に恵まれている環境だ。本当にありがたい。
そして以前、別の友人も言っていたけれど、今どきの子どもで、特に一人っ子的な子たちは、「わがまま」どころか、むしろ余裕がある子が多いと思う。不必要な我慢をそんなにさせられていない分、人に分け与えることや、譲ることに対して、あまり抵抗がないように見える。さらに、そこには不必要な自己犠牲感もなく、むしろ自分に必要なところは自分を優先的に大事にしていて、とてもバランスがいい。
あとは、これはうちの娘の特徴かもしれないけれど、大人の話を聞くのがとても好きだ。子ども同士で遊ぶのも好きだが、小さい頃から大人の中(両親や祖父母たちという大人しかいない環境)で過ごすことも多かった分、大人の話の興味深さを知っているらしい。ママ同士の会話もよく聞いているし、自分からほかのママによく話しかけている。
そして家では、直近の選挙のゆくえ、学校での先生の言動、保護者の言動、TVタレントたちの言動、家庭内での様々な懸案事項などについて、娘なりの意見を一人前に自ら話してくる。本当にそのいっちょまえぶりに、毎度笑ってしまうほどだ(馬鹿にしているわけではなく、子どもなりの視点で非常におもしろい)。
これもいろんな個性の子がいるだろうから、一人っ子だから、とひとくくりにできるものではないとは思うけれども、大人の中で育つ、というのもなかなか興味深いものだと思う。まあ、その場合の大人がどんな存在で、どんなふうにその子を扱うのか、というのが、とても大事だとは思いますが…。
そんなこんなで、長くなりましたが「一人っ子」一考を通して、わが子育てを振り返る、の巻でした。