「族」を繋ぐ偶然性、そして話し手は迷走する
このnoteはPodcastから一部抜粋した書き起こしです、全編はPodcastからどうぞ。
偶然性で生まれる「共」とはどういうものか
奥田:ここから考えたいのは偶然性で生まれる「共」ってどういうものなんだろうなみたいな話で、それがどういうふうに活動するのかとか何を活動できるのかとか、その生産・創造はどう生まれるのかというところ。つまり観光客は観光先で何をつくるのか、何を生むのかみたいな。
奥田:そもそも偶然性による「族」、例えば親にとって子は偶然で子にとっては親は必然みたいな話はわかったんだけど、他の日常にある偶然的な「共」ってなんだろうって。
森口:うん。
奥田:俺が個人的に思ったのはFacebook。うーんちょっと難しいけど名刺的な使い方の方が多いなって思ってて、偶然的に出会ってめっちゃ毎日親しくしゃべるとかじゃないねんけどその人の存在をどうでもいいポストで感じるみたいな。というのは結構偶然的だし、家族とまでは言わないけど族っぽい。共通の友達とかもあるし。まあ学校のクラスメイトとかもそうかもしれないねという話かな。
森口:まあ偶然やしな。結構学生までの友達ってそういうところがある。特に公立の小・中学校って住んでるところでパキッて区切られた同い年が集まってるだけやから、そういうので友達になってみたいなのは偶然、、、まあ難しいけどな。偶然性って何ってなるし。
奥田:学校っていうシステムが場所で分けることによって偶然性を切り分けてるやん。それって結構面白くて、家族じゃなくて族だとしたときに、本当に偶然に出会うっていうのはナンパみたいな感じの話になっていくというか笑。
森口:なんか今思ったのは、むしろナンパって今言おうとしてる偶然できる人間関係とはちょっと遠ざかる気がしてて、関係性をつくることが目的の出会い方やんナンパって。今言おうとしてる偶然できる人間関係ってそうじゃなくて、関係性をつくる人たちは関係性をつくることを目的とはしていないけどできちゃう関係性みたいな。切り分けられることによってできてしまうとか。というのはなんかポイントとしてあるかなと思った。
奥田:それがありきじゃないというか。
森口:お友達になりましょうでお友達になる人は少ないわけで、なんかナンパみたいなものを含めてしまうとそれこそマッチングアプリとかまで全部偶然っちゃ偶然やんか。
奥田:なんかわかった。出会いの偶然性ではなくて関係性が変わることの偶然性の話っていうことか。友達みたいなものがいつの間にか族みたいな。
帰る場所としての族と出先でつくる連帯
奥田:自分が居場所にするための集団とか共同体と、観光っていうワードを使うとすれば観光先として形成されるわれわれみたいな話って前々回の時はBLMとか活動とかいろんな話であると思うけど、それは分けて考えた方が良いんだろうなと。
森口:帰る場所としての族と、そこから出発して行った先でつくる連帯みたいな。
奥田:その上でどちらを考えたいのかというと行った先の話。帰属する場所としてのものは複合的な要因によって形成されている気がして触れにくい気がしてて、もう少し社会性が求められるというか、最初の卒業制作の話でいくと公共に近いようなエリアとしての観光先での連帯とか共同体みたいなものが旅先で生まれ得るとしたときに、その集団っていうのはどういう活動ができるのだろうかみたいなものは考えたい事柄としてある。観光というとある特定の出来事とか体験を得にいくものをイメージしてしまうけどじゃあそこの場所で何かを生み出すこともあるんじゃないかみたいなことも思ってて、なんかむしろそこに面白みを感じるんだけども、ある一つの帰る場所から出ていって、新しい場所で築かれる「共」っていうのは何ができるのか、何が生産できるのかっていうのを頑張って考えたいっていうのが今回の目標なんですけど。
「観光地」での生産
真部:なんかそこで生産って言われてるものが例えばどういう?
奥田:それはね、さっきから雑談的にマタギってワードを出してるんやけど、
真部:マタギね笑。
奥田:マタギって狩猟をして冬にクマとかシカとかを捕らえて食料にする人やけど、それは生産なんですよ。食料を獲得しに行ってるっていう。でも別に松尾芭蕉みたいに歩きながら句を読んでみたいなのも生産で、必ずしも何か特定の意味・内容を指しているというよりも自分から何かを獲得しに行こうとする姿勢、、ちょっとなんかわけわかんない言葉になってしまったけど笑。
森口:何か意義のあることができるみたいな、それくらいのニュアンス?
奥田:それぐらいのニュアンスでも良いかもしれない。
奥田:だからじゃあ観光地に行って写真を撮るのは生産ですかと言われると難しいねんな。生産っぽくはある、でもそれがただ単にカリブ海の海きれいですねみたいな話になるとそういう意味じゃない。
真部:本田由紀っていう社会学者がハイパー・メリトクラシーっていう概念を出してて、それの本の後書きぐらいで書いてたことで、なんかダメ連合みたいな、ある種の社会運動というか共同体がどっかにあるらしくて。それは本当にハイパー・メリトクラシーで求められるいわゆる「人間力」みたいなものを全て拒否する、何もしないということによってそれを主張にして人が集まってるというコレクティブがあるらしい。
森口:なるほど。
真部:本田由紀はハイパー・メリトクラシーに対してそういう抵抗の仕方はありうるけど、しかし社会全体が圧倒的にハイパーメリトクラシーが求められている中でそれの裏返しとしてそれが機能しているだけだからそれはアンチとしては機能しないし、構造としては同じことだからみたいなことを言ってて。
奥田:アンチではあるけどオルタナティブではないという。
真部:そうそう。とはいえ何も生み出さないし、今の現代社会とりわけ企業の論理で無価値とされるものを全て引き受ける、それこそを主張にしていくっていうことによって人が繋がるというのはある種面白い。
奥田:確かに面白い。でも多分規模の問題かなと思ってて、なんかめっちゃいっぱいいるとあんまおもんないというか。なんか3個くらい団体あるとおもんないなーみたいな。
真部:確かに笑。
奥田:そういう意味でいくと、観光地、別にそれが地理的な意味じゃなくても良いんだけど、そこに存在しているローカルな面白さみたいのものがきっとあって、そこの森に生えてる美味しいキノコを採って美味しいキノコ料理を生産するみたいなことってそれはかなり生産的で、その最初の1人に限らずでも良いんだけど一番最初としてのカウンターというのはある意味生産的だと思うんですよね。「超人間力」が求められている状況で「脱人間力」みたいなのを出すというのは面白くて。
奥田:だからそれが観光ではなくて探検に近くて、そういう意味では。探検者として何かを持ち帰ってくるということ、、、ちょっと待って、こんがらがってきた、集団としての話と個人としてのクリエイションの話がややこしくて、、
奥田:一つの拠点から旅出た探検者a.k.a.観光客がその観光先で何を成し得るのか、個人として何を成し得るのかみたいな話があるんだけど、そこでどう共同体に馴染むのかみたいな話もあるかもしれない。
森口:ほう。観光地の共同体ね。おーなるほどね笑。
奥田:で、馴染むことはその場所のローカルの面白さを見つけることで、それはでもとても生産的で、、これは何の話をしているんだってなってきて、、、
森口:ちょっと待ってな。
奥田:ちょっと待ってな、俺も考えるわ。
森口:ちょっと俺見失ったな笑。
真部:私も見失った笑。
(次回に続く)
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