コンピューター・リテラシーによって立ち上がる思考の世界
引き続き、『数学の贈り物』を享受しています。
今日は「変身」の章を読んで考えたことを書こう。
この章では、アラン・ケイ(計算機科学者、教育者、ジャズ演奏家)の言葉を軸にして、コンピューターというテクノロジーに対して人類がとるべき姿勢について著者の考えが綴られている。
アインシュタインやソクラテスの考えとも繋げて思考の世界を広げているところが秀逸だ。
RWで紹介されている「優れた読み手が使っている方法」の一つ「関連付ける」のミニレッスン教材として使えるかも。
著者の考えを要約すると、こうだ。
文字が発明され、書物を読むようになり、それによって人間は新たな思考の水準に到達した。それと同様に、コンピューター・リテラシーを身につけることで人間は新たな思考の水準に達することができるはずだ。コンピューターの利便性に溺れて、主体的に自己を変容させる努力を怠っていてはいけない。コンピューターを発明・開発したのと同じだけの情熱を持って、コンピューター・リテラシーによる新たな思考の水準を獲得し、問題解決にあたれる人間を真剣に育てなければならない。
この考えは、僕にとってとても共感できるものだ。
テクノロジーの発展によって得られるものが
これまで苦労してやっていたことを「やらなくて済む」だけなら
人間自体の能力は退化する一方だ。
そうして退化した人間が、新たに生まれた問題を解決するなんていうことは
期待できそうもない。
「やらなくてよくなった」分だけ、「新たにできるようになった」ものを作らなければならない。
そこに目を向ければ、新たなテクノロジーを受け入れることに対する恐怖心がなくなるのではないか。
リスクがあるからといって、便利で快適なテクノロジーを受け入れないというのは、無理がある。
たとえ年間に何千件もの交通事故が起きていると知っていても、人は車を手放さない。
新たにできるようになることで、失ったものより多くの幸せを生み出すしかない。
ただ、僕はコンピューター・リテラシーというものに対して「読み書きと同じレベルで身に付けるべきもの」とまでの認識を持っていなかったし、ICTを全然使いこなせていない方なので、これは反省しないと。
苦手とか、言ってる場合じゃない。
教育の世界で、テクノロジーによって可能になったことを駆使して授業の可能性をもっともっと拓いていかなければ。
コンピューター・リテラシーを身に付けてより高い水準で思考する世界の住人にならなければ。
追記
著者が引用したソクラテスの指摘にドキッとした。
「書物ばかり読んでいると、知者になる代わりに、知者であるといううぬぼればかりが育つ」
コロナ休校のおかげでいつもよりは本を読んでいる僕も気をつけないと。