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12/9 Periodista小澤さんのセミナーにて考えたこと
先日、スペインサッカーのジャーナリスト、小澤一郎さんのセミナーに参加した。
10代、20代の男性を中心に400人以上?くらいの参加者だったそうで、セミナー中も、zoomのチャットが賑やかだった。
セミナーでは、小澤さんのキャリアや、現代が個人の時代であること、スマホ上のコンテンツと実物の違い、また恋愛についてなど、面白い話が目白押しだった。
なかでも、考えさせられたのは、
・実物を体感することと、スマホの中での消費の違い
・経験の深さと幅について
・恋愛はgive and take ではなく、 give only であるべき
という点。
これらに関して、自分なりに考えてみる。
まず、実物の体感とスマホの中の世界について。
セミナーでは、実際に足を運んで(サッカーを)観るということと、スマホ内でヴァーチャルに行った気になることやファストなコンテンツ、例えばファスト映画を観ることが比較されていた。
ここでは、体験・体感と経験、あるいは単なる消費の比較がされる。体験・体感の方は体(からだ)という漢字が使われていることからも、直接身体に訴えるような経験(ここでの経験はこの比較を超えた一般的な意味での経験のこと)だ。慣用句にも、身体を使ってより直接的な経験を表すものが数多くある。まさに、肌で感じるとか、胸を熱くさせるとか、肝を冷やすとか、挙げたらキリがないほど。
体に訴えるような経験とは、そうでない経験と比べて何が特別なのか。それは、体で感じることはこれ以上なく直接的であり、何の媒介もなしに経験するということだと思う。この直接性とは、体それ自体に直接刻まれるということでもある。だからこそ、心の傷は体の傷のように残り続けるものだし、胸に刻み込まれた思い出は生涯にわたって人を励ますこともある。
一方の経験、あるいは消費は間接的なものとも言える。それらは、一時的なものであることが多いのではないか。ファスト映画などはそれの典型だ。ファスト映画を見ても、感動することはないし(少なくとも本編を見るよりは)、おそらく記憶にも長くは残らないだろう。もし残るとしても、それはその映画のあらすじについての事実だけで、その記憶は体に残るような体験とは呼べない。
これが間接的あるいは、媒介的な経験であるのは、それらの経験がすでにある自己、今ある現状の自分に何らの変化=成長も加えず、むしろ今ある自分の理解、枠組み、ものの見方を前提に解釈するからだ。つまり、経験、あるいは単なる消費は、既に知っていること、既に感じたことのあることであり、その中に溶け込んでしまうものである。
そういった意味では、景色や絵画、食事を写真で撮ることと似ている。写真はその時の経験を思い起こすための媒体であり、経験それ自体の代わりはできない。
体感・体験は自分自身に傷を残す。そのため、自分にとっては脅威になる。仮にそれが嬉しい体験でもそうだと思う。体験が自分に刻まれるほど強烈である時、その体験は重たいものになるし、疲れるものになるだろう。体験が強烈であればあるほど、それが自分に全てを注ぐことを要求するからだ。名作の映画は気軽には見られないだろうし、やり遂げた仕事の達成感はあっても、すぐさまもう一度やりたいとは思わないだろう。
しかし、結局はそういった体験を求めてしまうのだと思う。その体験がしんどくて、途中で逃避を繰り返しても、いつかはその体験に戻ってくる。なぜならば、おそらくそれのみが、人生を真に生きることの真面目さ、真剣さであり、それのみが人生に意義を見出すものだからである。
そういったものを求めていくと、より深く掘り下げていくこと、よりそのことに深くコミット、関与することにつながる。だからこそ、実物の体感と深さはつながっていると思う。
それはどのような領域であれ言えることだろう。逆説的にはなるが、広く浅くという領域にだって深さは見出せると思う。問題は、自分の今までの経験のなかで、心に刻まれた体感・体験に対して向き合い、そこから何に深さを見出していくのかを考え続けながら、実行し続けることだと考えた。
今回は、予定していた恋愛の話と結び付けられそうにもない。文量が増えすぎてしまうからだ。しかし、何稿かに分けていずれはそこに到達したいと思う。
また、上記の考えは素描であって、厳密さがかけるところがある。しかし、それは同時に発展性を持っているということなので次稿以降に期待していただければ幸いである。