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同時代を生きた演奏家で聴くドヴォジャーク(3)ウィレム・メンゲルベルク

ウィレム・メンゲルベルクという名をご存知でしょうか。かつてトスカニーニ、ワルター、フルトヴェングラーと並び称され、当時第一級の巨匠として扱われた偉大な指揮者ですが、今では殆ど顧みられなくなってしまいました。(そこには世界大戦中における複雑な事情が絡んでいるのですが…)
彼は、とりわけマーラーやR.シュトラウスから作品の献呈を受け、積極的に取り上げるなど密接な協力関係を築き、その受容に貢献したことで知られています。加えて、ブラームスやチャイコフスキー、グリーグを直接知っている最後の世代に属することも忘れてはなりません。彼は活動期を通じて主情的なルバートやポルタメントを駆使した後期ロマン派の演奏スタイルを貫き、多数残した録音を通じて現代に伝えている点で注目に値します。

1895年、24歳の若さで創立間もないアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の常任指揮者に選ばれ、以来半世紀にわたって在任、世界一流の水準に鍛え上げた。

そんなメンゲルベルク、チェコの大作曲家ドヴォジャークとも接点がありました。今回は、彼に関する証言・録音を踏まえて《チェロ協奏曲ロ短調 Op.104》に着目します。

チェロ協奏曲の作曲経緯と友情の危機?

この曲は、当時一流のチェリストであった古くからの友人ハヌシュ・ヴィーハンからの依頼を受けて、アメリカ時代の1894年11月から翌年2月にかけて作曲されました。(かつては恋心を抱いていた)義姉のヨゼフィーナが危篤であることを知らされたドヴォジャークは、第2楽章の中程でチェロ独奏に彼女の好きだった自作歌曲『私をひとりにして』Op.82-1の旋律を織り込みました(原曲の歌詞は「あの人の愛が私だけに向けられるこの幸せ…ひとりにして、この安らぎを乱さないで」というもの)。彼がボヘミアに帰ると、時を同じくしてヨゼフィーナは他界。そこで彼は、第3楽章のコーダを大幅に改訂し、まるで彼女との幸せな想い出を回想するかの如く、再びこの歌曲から引用された旋律をヴァイオリン独奏に託す形で新たに書き加えたのでした。
ところが、祈りの中で曲が閉じられるような結末に異論を唱えたのがヴィハーンでした。ドヴォジャーク自身のピアノ伴奏で試演を実施した際、いくつか細かい点の修正には応じましたが、ヴィハーンが「得意そうに見せた」 59小節のカデンツァを書き加えることはきっぱりと断るなど、彼の助言は頑として聞きいれませんでした。「私はヴィハーンの考えに賛成できません・・・ この作品は、私が書いたとおりに印刷して下さい」と、彼は出版社ジムロックに念を押しています。
「私の知らぬ間に、また私の同意なしには、誰にもーヴィン氏にもーいかなる改変も許さないと請け合って下さるのでなければ、作品はお渡ししかねます・・・ ですから、ヴィハーンが終楽章のために書いたようなカデンツァを書き加えることも承知できません。要するに、この協奏曲は、私が着想し、構想したとおりにしておかねばなりません。 オーケストラ総譜でもピアノ・スコアでも、終楽章にカデンツァはないのです。ヴィハンにカデンツァを見せてもらったとき、私はすぐに、そんなもので作品を汚すわけにはいかない、といってやりました。終楽章は、終りにかけて徐々に吐息のような弱奏に変わりー独奏部は、第1楽章と終楽章を回想してピアニッシモまで弱まるーそして、突然の盛り上りがあったあと、管弦楽が最後の数小節を独占して激しい勢いで終るのです。これが私の楽想であり、それを曲げることはできません。」(1895年10月3日ジムロックへの手紙)

ヴィハーン(左)、ドヴォジャーク(中央)

この改訂を巡り、作曲者にしか分からない気持ちを汲み取れないヴィハーンとの間に軋轢が生まれてしまったようです。結局、諸々の事情から世界初演のソリストはイギリス人のレオ・スターンが務めることになりました(初演者の交代については、意見の相違を原因とする主張を否定する見解もある)。
しかし、後にヴィハーンも考えを改めたのでしょう、作曲者から献呈を受けたこの曲を、自らの手でソリストとして世界各地で弾くようになりました。彼が初めてこの曲を演奏したのは、1899年ハーグでのこと。その時の指揮者が、他ならぬメンゲルベルクでした。あの時の決裂から約4年後、ドヴォジャークの念願がやっと叶ったこの演奏会は、2人にとって友情存続を証明する重要な出来事だったに違いありません。

メンゲルベルクの「チェロ協奏曲」から浮かび上がる演奏スタイルの変遷

メンゲルベルクとニューヨークでこの曲を演奏したピアティゴルスキー(ロシア出身のチェリスト)は、そのリハーサルの際、彼が発した指示について回想録で詳細に記述しています。

 大きな顔に重厚な体つきのメンゲルベルクは、オーケストラに向かって、まるで吠えるように指示をあたえたが、オーケストラの音が強すぎて彼の声は届かなかった。彼はスコアに指示してあるよりも、かなりおそいテンポをとった。そして途中でストップし、ふたたびやりなおし、また中断するうちに、オーケストラはますます強く、ますますおそくなっていった。わたしは、指揮者に声をかける機会を待っていた。そしてやっと練習の中断された折りをつかまえて、彼にもう少し速いテンポをとるように、小声で頼んだ。
 すると彼は大声で答えた、「わたしはこのチェロ協奏曲を作曲者といっしょに勉強した。このテンポが正しいんだ。」
 彼のぶつぶつ言う声は、終始オーケストラの響きに混ざりあっていた。彼に少なくともわたしが見えるように、また彼に音を聴くきっかけがあたられるようにと、わたしは立ちあがった。彼はわたしにすわるように合図し、オーケストラに、またはじめからやりなおさせた。彼は指揮棒で台をたたき、歌い、しゃべったが、テンポはおそくなるばかりであった。こうして長いトゥッティがつづいたあと、やっとわたしの出る個所がきたとき、わたしは抗議の意味で、普段以上に速いテンポで演奏した。 彼がそれをさえぎった。 「速すぎる。」

出典:ピアティゴルスキー(村上紀子訳) 『チェロとわたし』白水社

メンゲルベルクの人間性はともかくとして…(この時代は専制君主的な指揮者が多かったそうですね笑)
彼はドヴォジャーク本人と勉強したと明言していますが、その機会は先述のハーグでの演奏会のとき設けられたと推測できます。
実際にメンゲルベルクがこの曲を指揮したライブ音源が残っているので(ソリストはポール・トルトゥリエ)、冒頭の箇所を、特にテンポに注目して聴いてみましょう。

意外や意外、ピアティゴルスキーの証言から想像するほど「遅すぎる」ことはなく、むしろ現代の感覚からして、いくばくか速く感じられるのではないでしょうか。

作曲者による手稿譜や1896年初版譜に立ち返って見てみると、楽譜の冒頭のテンポ指示(メトロノーム記号)は『四分音符=116』と明確に記されています。事実、この曲の初録音と思われるタウベ指揮ベルリン国立歌劇場管とフォイアマンの演奏(1928/9年)では、第1楽章の演奏時間は12分を切っています。確かにメンゲルベルクの演奏は、例えば23小節目からのGrandiosoの部分など、タウベ盤と比較してみると、全体的にやや遅くなっているのが分かります。
その一方、近年の演奏現場では更に遅いテンポを取るのが一般的で、第1楽章で15分を超える演奏が多く見られます(例えば、カラヤンの録音では約15’40”、ジュリーニに至っては約16’20”)。作曲された当時から時代が下るにつれて、演奏のテンポがどんどん漸次的に遅くなっているのです。
しかし、少なくとも楽譜のメトロノーム記号を勘案する限りで、作曲者の意図により近いのはメンゲルベルクの方であると言えるのではないでしょうか。

チェロ協奏曲ロ短調の手稿譜、上部で速度記号が視認できます

もう一つ、メンゲルベルク録音の顕著な特徴として、テンポの変動幅が大きいことが挙げられます。例えば先程の部分、Grandiosoに入る直前から急激に落とし、以降も絶えず泊ごとに伸び縮みさせています。他にも、72〜74小節目の大胆なグリッサンドなどは実に鮮やかな効果をもたらします。演奏家の個性が濃縮された表現、意欲的なアイデアに満ちたこの音源と比較してみると、今日耳にする演奏は概してのっぺり平板で音程の取り方もデジタル的、その違いは歴然としていると思います。換言すると、ネット時代に生きる我々は作曲家の生の声(楽譜や一次資料)ではなく、巷にあふれる録音etc.から楽曲のイメージを形成していませんか、という問題提起をしたいのです。個人的には、この現代的な極端に遅いテンポは苦痛で聴くに堪えません…。

生涯にわたりドヴォジャークの音楽を演奏したメンゲルベルク

1904年5月5日、メンゲルベルクはたった数日前(5月1日)この世を去ったドヴォジャークを追悼するコンサートで指揮を執りました。

1904年 5月5日(木)  20時 コンセルトヘボウ・アムステルダム
定期公演
コンセルトヘボウ管弦楽団
指揮:ウィレム・メンゲルベルク

アントニン・ドヴォジャーク 序曲《自然の中で》ヘ長調、op.91
アントニン・ドヴォジャーク 交響的変奏曲、op.78
アントニン・ドヴォジャーク 英雄の歌、op.111
休憩
アントニン・ドヴォジャーク 交響曲 第9番 ホ短調 op.95、ー新世界より

出典:https://archief.concertgebouworkest.nl/en/archive/search/

ここで一際目を引く曲目が、交響詩『英雄の歌』です。この曲は、滅多に演奏機会に恵まれませんが、かのグスタフ・マーラー指揮するウィーン・フィルが初演を委ねられた曲でした。ドヴォジャークは本番のみならずマーラーの招きでリハーサルにも立ち会いました。感動的なフィナーレや途中に出てくる象徴的な葬送行進曲など、かなりの力作で、彼が書いた生涯最後の管弦楽曲となりました。エルベンの詩から着想を得たそれまでの4作の交響詩と異なり、自伝的な作品と言われています〔注〕。
マーラーから篤い信頼を寄せられ懇意にしていたメンゲルベルクも、彼に触発されたのか?この珍曲を一時レパートリーに入れていたようです。このことからも、ドヴォジャーク作品の良き理解者であったことが窺えます。
〔注〕因みに、ブラームスの死に重ね合わせる説もある。(ウィーン・フィルの初演ではメインでブラームスの交響曲第2番が演奏されていることから、その可能性もあながち否定できない。)

そして何よりも、先程紹介したトルトゥリエとの共演によるチェロ協奏曲が1944年当時ナチス・ドイツ占領下にあったパリで録音されていることは特筆すべきでしょう。検閲や演奏禁止など厳しい文化統制が敷かれていた中で、同様に保護領となっていたボヘミアの"民族的"な作品を敢えて取り上げるリスクは想像に難くありません。メンゲルベルクは1941年にもコンセルトヘボウ管と交響曲第9番《新世界》を録音していますが、ナチスによるオランダ占領直後という事実も鑑みると、容易ならざる時代背景が浮かび上がってくるのではないでしょうか。

私たちは幸運なことに、残された録音を通じて、生粋のロマン主義者・メンゲルベルクの至芸を堪能することができます。バッハのマタイ受難曲でもベートーヴェンの交響曲でも、好きな作曲家や楽曲を入口に彼の録音を一度聴いてみて下さい!(抱く感情は人それぞれと思いますが…)少なからぬ衝撃を受けるはずです。メンゲルベルクの孤高の音楽、そして19世紀の演奏伝統が再評価されることを願ってやみません。

参考文献
音楽之友社「作曲家別名曲解説ライブラリー ドヴォルザーク」
ギー・エリスマン「ドヴォルジャーク」音楽之友社
Michael B. Beckerman ”New worlds of Dvořák : searching in America for the composer's inner life” Norton
https://www.willemmengelberg.nl/
https://www.henle.de/blog/en/2021/10/25/excess-and-empty-space-text-variants-in-dvoraks-cello-concerto-op-104/
https://www.antonin-dvorak.cz/en/work/concerto-for-cello-and-orchestra-in-b-minor/
https://www.tpo.or.jp/concert/pdf/20150113-14.pdf
https://www.tmso.or.jp/j/wp/wp-content/uploads/2019/07/monthly_tmso-2019-7_8.pdf

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