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京極堂シリーズを20代の間に読み終えられなかった話

こんなタイトルにすると、ぼくが今しがた三十路を迎えたばかりのような捉え方をされるかもしれない。そう捉えて頂いても一向に構わない。
が、残念ながら、こちとら三の者となりて、既に十五ヶ月ほど経過している。

表題の件。

ぼくの十代は江國香織女史の十年だったと言っても過言では無いと思う。
小学四年生の頃だったと記憶しているが、母親が読んでいた「きらきらひかる」を読んだのが始まりだった。はっきり言うが、およそ九歳のおつむでは理解出来ない作品だったことは間違いない。だけども、その表現の流麗さを子どもながらに感じたこともまた、間違いない。

その後は、江國香織を読み、読み終わったらまた江國香織を読み。
たまに宮部みゆきを読んだりして。また江國香織。
権藤権藤雨権藤である。

大学受験の為に学校の図書館で勉強してたはずが、図書館内の江國作品を全て読破したのもぼくの人生のハイライトのひとつだ(なんで大学受かったのか今でも分からない)。

とまあ江國香織への愛は今度にするとして。

今日は京極夏彦氏である。

二十歳の頃、「姑獲鳥の夏」を読み始めた。
読み始めた理由は簡単。太い本を読む自分がカッコイイと思ったのである。中学生で棄てておくべき感情ではあるのだけど、やはり書店での、俗に言う京極堂シリーズのインパクトがすごいのだ。シリーズを通して、異常なまでの分厚さ。
いつか読んでみたい。けど、読み出すとこの量は、ヤバい。引き返せないぞ。と思ったものだ。

ちなみにこのシリーズ、本当は百鬼夜行シリーズという名称が正しいらしいのだけど、ぼくは京極堂シリーズで馴染んでしまったのでこちらを使わせてほしい。

さて、とりあえず京極堂シリーズ第一冊目の姑獲鳥の夏は、まだ薄めであった(それでも文庫本で600頁を超えてくるが)ので、一度読んでみるかと思い手に取った。

これがいけなかった。
俗に言う沼である。

他の小説とは根本的に何かが違う。
100頁以上に渡って仏教だの密教だのの解説を読まされる。正直しんどい。きっと堂本も言う。なのに読んでしまう。そのあとの圧倒的な面白さが約束されているから。

当時僕は基本的には、アルバイトの休憩時間、そして移動時間に読み進めるスタイルであった。姑獲鳥を読み終わり、次に手にした「魍魎の匣」。ここから八冊ずっと1000頁超えである。第六弾にあたる「塗仏の宴」など、二部作である。因みにぼくは講談社文庫派。

そう、魍魎の匣を読み進める途中で気がついたのである。

(これ、このペース、終わらねえ)

一旦はペースを上げたこともある。だけど気づく。終わるのが寂しい。

ならば。

ゆっくりでもいいではないか。二十代終わる頃までに読み終われば、と思ったものである。

今、どうだ。
昨日、「陰摩羅鬼の瑕」を読み終えた。これは最後の一冊。

と見せかけて。


あと一冊、丸々残っちゃってるのである。

いや、あと一冊どころではない。登場人物が同じ、スピンオフ的な作品を加えると、あと九冊も残っちゃってるのである。詰めの甘さが半端ないのである。下手したらアラフォーまで読み続ける形である。

二十代を丸々このシリーズと一緒に過ごしたことになった。そして終わらなかった。終わらないことは、当初は不安だったけど、今では喜び。

読んでも読んでも終わらない恐ろしさと素晴らしさ。
実際、あと9000頁の楽しみが残ってると思うとワクワク不可避である。
とは言え、このシリーズ、実は完結している訳ではない。

色々噂されてはいるが、真実はどうあれ、京極堂シリーズ本編の最新作「鵺の碑」は未だ発売されていない。多分これからもされないのだろう。沼の住民としては悲しいとしか言えない。
四十迄には全部読み終えますから、その頃には出てたらいいな。

面白さは保証するので読んでみて欲しい。敢えて中身に触れる事はしないから。この不思議な感覚を感じて欲しい。
あ、でも、この世に不思議なことなど何もないのだよ。

え?次に何読むかって?

我孫子武丸の「殺戮にいたる病」読みますよ。

楽しみは後に取っとくものだよ。

あと九年くらいで読み終わればいいんだからさ。

二十年浸かれる沼、君にはある?

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