哲学に関する短いノート
「哲学とは」と問われてもなかなかに答えるのが難しいのですが、まずは言葉の成り立ちから。英語の「philosophy フィロソフィー」の語源は、ギリシア語の「philo 愛する」と「sophy知」からできています。つまり「知ることを愛する」。哲学も「学ぶことを愛する」の意なので、よい訳だと言えます。たぶん哲学という言葉は明治維新以後の造語でしょうから最近の言葉です。まあ私たちになじみがなくても当然です。哲学者といわれる人は「この世界はどういう仕組みなのか」という問いをともかくその時点での答えを間違ってもいいから導き出そうとした人たちです。紀元前六〜七世紀に「万物の原理は水である」と言っていたタレスが最初の哲学者と言われています。彼がギリシア人なので語源がギリシア語に由来するのです。そしてアリストテレスやプラトンやソクラテスなんかが出てきまして侃々諤々やっていた。もう二千六百年ぐらい議論していますが、未だにみんなが共有できる答えは出ていないです。
発祥からわかるように完全にヨーロッパのものです。ものの見方考え方はインドにも中国にも、当然日本にもあるわけですが、最も体系的に徹底的に築き上げたのがヨーロッパ地域だったのです。ここがポイントです。ヨーロッパが育んだ文化には他には類を見ない体系が多々あります。まず科学そして美術です。そしてこれらをもともと総括していたのが「宗教」です。まずは特定の宗教のことは置いておきます。ここで大前提となるのが「人が生きてゆくためには、あるいは死んでゆくためには、宗教が絶対に必要なもの」だという認識です。人は一人では生きられず、必ず何らかの共同体をつくります。その時にみんなを束ねるルールが宗教の始まりで、人を超えたもの「神」をつくることでいろいろと困ったときに「だってそうなんだもの」的解決をもたらしてみんなを納得させます。台風が直撃して家族が死んでしまい、理不尽だけどなにか理由を求めた時に「お供えしなかったから神様が機嫌を損ねたんだよ」とすれば少しは納得できます。そんでは「野菜お供えしたのに地震直撃したよ」と来たら「実は神様肉食なのだから次からは小羊でよろしく」とくるわけです。(旧約聖書のカインとアベルの話)。ともかく理不尽で不条理なことをつじつま合わせる必殺技であり、役に立つけれど、それが共同体ごとにいろいろ出てきて(イスラム教とかユダヤ教とか仏教)、それぞれが主張だけをすると当然争いになってしまいます。それは困るので、色々な考え方のなかで共通する良いところだけ集めて「みんなが納得するいい感じの考え方(世界とのつきあい方)を探しましょう」というのが共同体の哲学だと私は考えています。だから宗教から独立しようとする動きが随所に出てきます。ニーチェがキリスト教を強く攻撃したり、フッサールが絶対的な神の認識を否定したりしています。同時に科学もだんだん宗教から分離してゆきます。例えばコペルニクスの地動説をめぐるガリレオの宗教裁判、決定的なのがダーウィンの進化論です。神様の迷える子羊のはずが猿と変わらない動物が人間なのでは権威主義の宗教関係者は困るますよね。美術も始めは神にまつわる画題を描いていたのですが、王族、権力者に遷り、ミレーの『落ち穂拾い』頃にはただの農民の姿に、ウォーホルまでくるとスープの缶詰にまで変わっています。ウォーホルには実は理論的逆説があり、「スープの缶のラベルが消費社会では神の役を演じる」ことも示唆してるいのです。マリリン・モンロー死後につくられたシルクスクリーンの連作もメディアが宗教に代わって機能して、死んだ人をさも生きているかのように崇める我々をあざ笑っています。もすごい文化批判機能です。話がそれたました。
ともかく他者(自然・非ヨーロッパ含む)を理解し、自己を再認識することが哲学にとっては大切なのです。闇雲に自分の考えを貫くことではないです。だからプラトンに代表されるように、よい哲学者は対話好きです。ともかく生きるのが辛くっても「神様の思し召しだからしょうがないよ」を、もうちょっと説得力を持って説明しようとしたら「生きるって何?」「辛いって何?」とかまで考えなくてはならなくて、どうしようもなくややこしくなってしまいました。できれば簡単にしたいんだけど世界がすでに複雑怪奇だけに仕方なく難しくなるようです。
(トリ・スクール テキストより)
注:トリ・スクールとは、店主岡山が主催していた現代美術の鑑賞術を学べる学校です。関西のカフェで美術史に沿った12のテーマを月一、一年かけて教えていました。