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宗教に関する短いノート(1)

神について
 キリスト教、イスラム教、その源流となるユダヤ教は一神教です。彼らは同一の神を信仰していて、その唯一の神が世界のすべてを創造しまたとされています。ミカエル、ガブリエルに代表される天使達は、神の奇跡を地上に伝えます。一神教は、全知全能の揺るぎない中心が存在する宗教体系です。ところがこれはめずらしい形でして、世界の他の宗教をみると多神教の方が数としては圧倒的です。例えばギリシア神話では、母なる神ガイアにはじまりゼウス、太陽神アポロ、美の女神ヴィーナス、海の神ポセイドン等がいて、神々の恋の物語が展開されています。それと似ているのが日本の神話で、こちらでは太陽神は女性で天照大神、兄弟にスサノウやツクヨミ等がおり、彼らを産んだ神としてはイザナギがおり、妻はイザナミです。シヴァ神、ヴィシュヌ神のヒンズー教も多神教です。仏教はもともと神を想定していない宗教でしたが、やがて多神教の土壌に触れ、曼陀羅が示すような多様な宇宙的宗教観を形づくるにいたりました。ちょっと不信心ですが違いや共通点を較べると小難しそうな宗教も楽しくなります。例えば、キリスト教、仏教、イスラム教の三大宗教の強力さは死後のイメージの明確化と救済のシステムを提示したことだと私は捉えています。いわゆる「天国と地獄」です。これはとてもイメージしやすく教訓的で、政治に利用できる考え方です。だから現在でも国家と結びついているものが多いです。
 日本はもともと多神教の傾向が強い地域にあり、願い事は神様、死んだら仏様というように、神社とお寺を使い分け、なんとなくクリスマスを祝ったりしてキリスト教も上手くイベントに使っています。このように曖昧な宗教観なので、自身の信仰や宗教について考える機会が少ない。ですから、ついつい美術を宗教から離して理解するようになっています。それが全てとは言いませんが、宗教から美術を見るのも大切な道筋です。私は西洋美術の鑑賞を契機に、自身の宗教観、信仰観を整理しました。

日本の風土と宗教観の形成
 日本は地理的に孤立していたために、他の民族(アイヌや琉球を忘れてはダメだけど)との戦いと交流が少ない地域です。ですから強い強制力を持つ宗教(ついでに言葉)を必要とはしなかったし、中国が取り入れた仏教、さらには儒教を輸入して共通文化圏つくり、その後、戦略的な鎖国に成功しました。しかし明治維新で西洋列強と渡り合うために近代化と天皇を中心とした国家形成のために、国家神道を作り上げます。そのあたりから日本の宗教観が歪んできて、敗戦を機に宗教アレルギーのように否定的態度が増えてきています。慣習化した仏教や神道を宗教と考えず、宗教という言葉の対象が新宗教に向かい、それらを一括して「怪しい」と断じてしまう傾向があります。その一方で、神に対する曖昧な信仰心は持っていてそれらは「怪しくない」のです。宗教的に見たら、自らの経典や儀式に向かい合う新宗教の方が、信仰心の発露だけをみると「怪しくない」のですけどね。

宗教とテキスト
 宗教といいますとテキスト(聖書とかコーラン)があり、それが細かく生活を規定しています。ところが仏典は元ネタがサンスクリット語でそれを漢語訳しています。それは我々にとって呪文としかいいようがなく、説法をちゃんと聞きに行かないと何を説いているのかさっぱり解りません。どちらかというと儒教の方が生活態度を詳しく規定しています。浄土真宗にいたってはもう仏典も読まなくてよく、信仰心の全くない罪人であっても「南無阿弥陀仏」と唱え、御仏の慈悲にすがれば極楽浄土へ逝けると究極の救済(悪人正機)を提唱しています。さらに仏典の代わりに「偈」という歌で仏の教えを呑み砕いています。ちょっと話がそれましたね。ともかく生活の中での経典による宗教規範が少なく、神秘体験も特定の教義に縛られることなく解釈できる。テキストつまりは言語と宗教の関わりの希薄さが生活と宗教の関わりの希薄さにつながっていると考えます。

神さまの物語
 神道においてテキストは物語的です。それらは散文のようにあまた広がり、物語を飛び出して全ての事象と同一視されるようになっています。さらに、全てに神性が宿るとする八百万の神という極端な多神教を考えると昨今のモノの増加にともなって神様も増えてそうです。仏教は神そのものを想定してなくて、仏陀は神でなくあくまで悟った人なんです。そこでの神の像は出てこないで宇宙観だけが示される。世界の中心の山、珠弥山から続く仏の世界は多様で素晴らしく、六道輪廻も含めてダンテの神曲に負けないくらい壮大です。一方、神道は神の像はつくらずに信仰の対象物を御神体(鏡・剣・勾玉)にして公開していません。秘密にすることで求心力を上げてるのです。死後の世界も極楽浄土じゃなくて「よもつひらさか」でイザナギが大岩でふさぐまで歩いて行けました。成り立ちは、仏教がある意味、教条的なのに対して、理不尽で身勝手な神様の物語が主体になっています。

神さまをだませる
 日本では昔から神さまは全知全能ではなく、やりようによってはだませるのです。例えば私が前に住んでいたマンションの天井に「雲」の張り紙があり「なんじゃこら」と思ったのですが、どうやらその下には神棚または仏壇があったらしく、三階建てマンションの一階だと神様や仏様の上に人が立つことになる。それでは失礼にあたるので「雲」をはって「上は空ですよ」と神様や仏様を上手いことだましていたようです。あるいは神様や仏様はそんなことはお見通しで、私たちの心遣いをあたたかく見守ってくれているのでしょうか。

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