災害思考
安全は勝手に生まれないという認識と考え
災害の認識をメディアに頼る癖がついている気がします。もちろんのこと、知識の共有というのは人間の種として最も強みを発揮できる部分です。が、逆に言うと弱みにもなる。環境に甘んじ、怠惰になって頼り切ると、自分で考える頭が失われる。
ある対応は特定状況の想定でしか肯定できない
災害に関する情報を通じて考えるようになったことは、これです。あなたは水害の起きない内陸の非常に高い土地で生活し、水害を心配し、決死でその備えをするか?もちろん、しませんね。問題は、そこじゃないんです。「生活範囲なら、水害は起きない」ですが、水害のある土地に移動したら、あなたが水害のない土地に住んでいることと関係なく、被災する可能性が増えて、実際に被災したりするんです。防災の認識が「家」に固定されると、それ以外の問題が認識されなくなります。
あなたは内陸に住んでいる。しかし、あなたが100km先の海に遊びに行くとき、状況は何もかも変わる。移動中に災害が起きる可能性があり、移動した先では移動した先の災害の可能性がある。それは予定しない朝かもしれないし夜かもしれない。夏かもしれないし冬かもしれない。想像もしなかったゲリラ雷雨に見舞われたり、濃霧が発生していることだってあるかもしれない。あるいは意図と関係なく、海外線の山沿いということだってあるかもしれない。「かもしれない災害」です。
条件は3つ 地域 季節 状況
移動すると状況は変化する
防災というものを全時間全状況的に常に考えてる人はなかなかいないと思います。防災がこの日本でずっと叫ばれ続けるのは、脳が日常に戻ろうとし、戻ると忘れるからです。日常というものは実在しませんが、人はというか、脳はストレスから逃れ安心に縋ろうとするのです。だから、日常の中で、人は意識的に考えないと防災という考えを頭から追い出してしまいます。
災害は予知できないが、予想することはできる
災害がいつどんな風にどんな規模で起きるか?もちろん、誰にもわかりません。ただ、災害の種類はそんなに多くはなく、考えれば地形上はこういうことが起きる可能性がある、という程度の予想はできます。それに沿って、できることを幾らかするだけでも違います。出先でも、ペットボトル1本の水、いくらかの行動食とライト。これだけでもあるとないとではだいぶ違ってきます。店のある場所、食べ物の買える場所や状況で被災するとは限らない。案外忘れがちなことです。しかし、あり得る話です。
災害にも季節がある
能登豪雨が真冬だったら?あるいは、東日本大震災が真夏だったら?などなど、状況が違っていたら、更に犠牲が増えていたかもしれない可能性のある問題があります。最近真夏は危険だといわれます。地域によれば真冬が危険です。状況と必要は時期と地域で変わります。そんなときにないものが、問題を更に悪化させ、深刻化させるかもしれません。防災は基本的に関東を基準としています。地域的な想定が出来るのは現地の方だけです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?