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デイモン・ラニアン「プリンセス・オハラ」新翻訳

割引あり

 そりゃあ、プリンセス・オハラってのは本物のお姫様なんかじゃないんだ。実際のところ、ただの赤毛の小娘で、そばかすだらけ。テンス・アベニューの生まれよ。本名はマギーって言うんだ。プリンセス・オハラって呼ばれるようになったのには、こんなわけがあるんだよ。

 あの子の親父がキング・オハラってんだが、この男、25年くらいブロードウェイで古めかしいビクトリア馬車を引っ張ってた。で、キング・オハラが一杯機嫌になるたびに、つまりほぼ毎晩雨の日も晴れの日も、「俺の血管にはアイルランドの王家の血が流れてるんだ」って自慢するもんだから、誰かが「キング」って呼び始めたわけさ。俺の覚えてる限り、ずっとそう呼ばれてたな。まあ実際のところ、キング・オハラの血管に流れてるのは98%くらいアルコールだろうがね。

 ところでだ、7、8年前のある夜のこと。キング・オハラがブロードウェイのミンディーズ・レストランの前の客待ち場所に現れたんだ。横には10歳くらいの細い足の女の子が座ってて。キング・オハラが「これは俺の娘だ。かみさんの具合が悪いもんで、俺が面倒見てるんだ」って言うわけよ。そしたらすぐさま、ギャンブラーのラスト・カード・ルイが手を伸ばして、その子に握手を求めて、こう言ったんだ。

「君がキングの娘なら、さしずめ君はプリンセスだな」ってラスト・カード・ルイが言うんだ。「やあ、プリンセス」ってね。

 それ以来、あの子はプリンセス・オハラになったってわけさ。

 それから数年の間、あの子はよく夕方早くにキングと一緒に乗り回してたよ。時々、キングが酔いつぶれてる時なんかは、彼女が直接ゴールドバーグを操縦してたもんだ。ゴールドバーグってのはキングの馬の名前なんだが、実際のところあんまり操縦する必要はなかったんだ。だってこのゴールドバーグ、ブロードウェイの道をみんなより知り尽くしてるからな。実際、このゴールドバーグってのはすごく賢い年寄り馬でさ。キングがゴールドバーグって名前をつけたのは、テンス・アベニューで食料品店を経営してる、ゴールドバーグっていうユダヤ人の友達を敬ってのことなんだ。

 当時のプリンセス・オハラは、泥で固めた塀みたいに不細工で、もしかしたらそれ以上だったかもしれんな。そばかすに、細い足に、出っ歯もちょっとあって、びしょ濡れでも60ポンド(約27キログラム)もなかったろう。赤い髪は背中までおさげで垂れてて、誰が話しかけてもクスクス笑うもんだから、結局あんまり誰も話しかけなくなった。でも、年寄りのキング・オハラはあの子のことを気に入ってたみたいだったな。

 そのうち、あの子がキングと一緒にいるのを見かけなくなって、誰かが尋ねると、キングは「かみさんが、プリンセスはもう大人になりすぎてブロードウェイをうろつくのはよくないって言うんだ。今は公立学校に通ってるよ」って言うんだ。何年も見かけなくなったら、みんなキング・オハラに娘がいたことを忘れちまって、実際のところ誰も気にしなくなったってわけさ。

 キング・オハラってのは、しわくちゃの小柄な爺さんで、真っ赤な鼻っつらが特徴なんだ。ブロードウェイじゃあ、みんなよく知ってる光景さ。あいつが乗り回してる姿といえば、シルクハットを頭の片側にグイッと傾けて被ってるもんだから、今にも落ちそうに見えるんだ。実際、キング自身も片側に傾きすぎてて、今にも落っこちそうなんだよ。
 キングがビクトリア馬車の座席に乗っかってられるのが不思議なくらいでさ。一度なんか、ラスト・カード・ルイってのが、セントルイスから来たオリーブ・ストリート・オスカーってギャンブラーから、いい勝負で金を巻き上げたことがあるんだ。オスカーが、キングがセントラルパークを通り抜けられずに座席から転げ落ちるって8対5の賭けを持ちかけてきたんだが、もちろんルイは有利な賭けしかしねえからな。ルイはよくキング・オハラと一緒にセントラルパークを通るから、キングがどんなに傾いても絶対に落ちないって知ってたわけさ。

 俺自身はあんまりキングと一緒に乗らねえな。あいつのビクトリア馬車が古すぎて、底が抜けそうで怖いんだ。それに、走って追いつこうとして息切れしそうだしな。キングときたら、たいてい座席の上でアイルランド民謡なんか歌ってて、乗客のことなんか気にしちゃいねえからな。

 この街にゃあ、まだかなりの数のビクトリア馬車が残ってるんだ。ビクトリア馬車ってのは、四輪の低い馬車で、4、5人座れるやつさ。夏になると、セントラルパークを回って外の空気を吸いたがる連中に人気なんだ。特に、ちょっと一杯やりながら外の空気を吸いたい連中にね。

 俺からすりゃあ、どこかに行きてえなら、古くさいビクトリア馬車よりタクシーの方が便利で安上がりだと思うぜ。だが、ちょっと一杯やりながらって連中は、別にどこかに行きたいわけじゃねえし、少なくとも急いでどこかに行きたいわけじゃねえんだ。だから、こういうビクトリア馬車が、たいていパークの入り口に並んでて、夏はそこそこ商売になるってわけよ。世の中がどうなろうと、ちょっと一杯やりたがる連中は必ずいるもんなんだな。

 でもよ、キング・オハラはミンディーズの前に陣取ってるんだ。ブロードウェイの常連客が多いからな。そいつらはそんなにがぶ飲みするわけじゃねえが、暑い夜にパークを回って涼みたがるんだ。まあ、俺が今話してる頃は、ブロードウェイじゃあみんな懐具合が厳しくて、キング・オハラも見知らぬ客を当てにするしかなくなってたがな。

 で、ある晩のこと。キング・オハラがミンディーズに向かってくるのが見えたんだ。いつもみたいに座席の片側に傾きまくってて、オリーブ・ストリート・オスカーときたら、前に負けた借りを返そうと、今度こそキングが転げ落ちるって6対5の賭けをラスト・カード・ルイに持ちかけてきやがった。ルイがそれに乗ろうってときに、なんと爺さんのキングが道路にドスンと落っこちて、ピクリとも動かねえ。そのまま息を引き取っちまったんだ。これでラスト・カード・ルイがどれだけツイてるかわかるだろ。誰もキングにそんなことが起こるなんて思いもしなかったからな。ゴールドバーグって馬までびっくりして立ち止まり、後ろ脚でキングのシルクハットを踏んづけてたぜ。医者の話じゃ、キング・オハラの心臓が突然止まっちまったんだとよ。後でリグレットって競馬野郎が言うにゃ、キングがどっかで酒を断ったのを急に思い出して、それで死んじまったんじゃねえかってな。

 数日後、ミンディーズの前に大勢の連中が集まってて、ビッグ・ニグってサイコロ野郎が、キング・オハラがくたばってからこの辺の雰囲気が変わっちまったって言ってたら、突然キングの古びたガラクタみたいなビクトリア馬車が現れたんだ。ゴールドバーグが引っ張ってるから間違いねえ。

 で、運転席に座ってるのが誰だと思う? キング・オハラのへこんだシルクハットを斜めに被った、18か19くらいの赤毛の娘さ。顔中そばかすだらけで、何年も見てなかったけど、一目でプリンセス・オハラだってわかったぜ。随分変わったもんだ。

 実際、そばかすはあるけど、今じゃあ可愛い娘になってやがる。出っ歯は消えたみたいだし、足もいい感じに丸みを帯びてきてる。他のところもな。それに、見てて楽しくなるような青い目をしてて、笑った顔がまたいい。全体的に、なかなかの美人になったもんだ。

 まあ、当然こんな格好で現れたもんだから、みんな何かと言いたくなるわな。中には、あれじゃあ淑女じゃねえって批判する奴らもいたが、ビッグ・ニグが静かに回りを歩いて、そんなこと言うやつは耳をもぎ取ってやるぞって脅したもんだから、批判の声は消えちまった。ビッグ・ニグが聞いたところによると、キング・オハラが死んだとき、未亡人と6人の子供の他に残したのはゴールドバーグって馬とビクトリア馬車だけだったらしい。プリンセス・オハラは一番上の子で、働けるのは彼女だけ。で、親父の仕事を引き継ぐしか思いつかなかったってわけよ。

 プリンセス・オハラを一目見るなり、競馬野郎のリグレットがビクトリア馬車に飛び乗って、公園を2周してくれって頼んだんだ。誰でも知ってるが、ビクトリア馬車は1時間2シリングするんだぜ。リグレットの懐具合といえば、ラスト・カード・ルイから飯代に借りた1ポンド紙幣だけだってのに。でもこれからは、リグレットがもっと金を借りられりゃあ、プリンセス・オハラの一番の客になるだろうな。ただ、競争が激しくなってきてな。特にラスト・カード・ルイだ。あいつは今じゃあブロードウェイじゃあ目立つ存在で、金もあるしな。まあ、個人的には好きにしろって感じだが。ラスト・カード・ルイってのは、ずるい真似をする奴でな。っていうか、ずるい真似をするのに躊躇しないタイプだ。

 ラスト・カード・ルイってあだ名は、若い頃ここと欧州を行ったり来たりする船で、他の乗客とスタッドポーカーをやってたからだ。最後のカードでいつも強くなるのが、異常だと思われてた。特にルイが配ってる時はな。まあ今じゃあ、船に乗るなんて古臭い商売だし、ルイにはもっと儲かる仕事がある。サイコロゲームとか、いろいろとな。

 間違いなく、ラスト・カード・ルイはプリンセス・オハラに目をつけてた。でも、ずっとビクトリア馬車に乗ってるわけにもいかねえから、他の連中も時々彼女の客になる機会があるんだ。実際、俺も一度プリンセス・オハラと乗ったことがある。なかなか楽しい経験だったぜ。彼女は、昔のキング・オハラみたいに運転しながら歌うのが好きなんだ。

 でも、プリンセス・オハラが歌うのはアイルランドの古い民謡じゃなくて、「キャスリーン・マヴァーニーン」とか「マイ・ワイルド・アイリッシュ・ローズ」、「アストア」とかの歌だ。彼女は声の通る低音で、朝方にセントラルパークを走りながら歌うと、木の上の鳥が目を覚まして鳴き始めるし、周りの警官どもは笑顔で立ち止まる。セントラルパーク・ウェストやサウスの高級アパートに住んでる連中も、窓を開けて聴き入るほどだ。

 そんなある10月の夜のこと、プリンセス・オハラがミンディーズの前に現れなかったんだ。みんな心配して、いろいろ憶測が飛び交ってた。そしたらビッグ・ニグが来て、ゴールドバーグじいさん(馬の方な)が腹痛か何かの病気で走れなくなって、プリンセス・オハラが馬なしになっちまったって言うんだ。

 この知らせを聞いて、みんな悲しんでたな。プリンセス・オハラに新しい馬を買うために募金でもしようって話も出たが、誰も本気じゃねえ。みんな懐具合が厳しいからな。ビッグ・ニグが、ラスト・カード・ルイなら大盤振る舞いしてくれるんじゃねえかって言ったが、これも不評だった。ルイがプリンセス・オハラに言い寄ってるのを、みんな快く思ってねえからな。ルイが若い娘に対してオオカミ野郎だってのは周知の事実だしな。そんなとき、競馬野郎のリグレットがこう言い出したんだ。

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