『海のはじまり』からの『神様のボート』
ドラマ『海のはじまり』、めちゃくちゃ楽しんでいます。
そう言われて嬉しいかどうかはわかんないけど、脚本の生方美久さんも主題歌のback numberも、群馬の誇りだいね~!
みんな海なし県育ちなのに、よくぞはじまってくれた。
『海のはじまり』がどんなお話かを、詩情も何も取っ払って時系列順に説明してみます。
学生カップルに妊娠が発覚。女性は堕胎しようとするが、ある出来事をきっかけに出産を決意。
「彼氏の将来を縛りたくない」という思いから、堕ろしたことにして一方的に男性に別れを告げ、一人で娘を産み育てる。
しかし彼女は病に冒され、娘が小学校に上がった頃、亡くなってしまう。
訃報を耳にして葬儀場を訪れた彼氏は娘の存在を知るが、すでに婚約者がいて……
そうですよね……詩情も何も取っ払って時系列で説明してしまうと、「女が悪い」って思いますよね……
Xの反応もそんな感じです。しかも彼氏の中の人が「柏木学生(『舞い上がれ!』)」の目黒蓮くんなんで、「悪気がないのに悪者にされ、自分でもあれ?俺悪者だったのかな……?」っていう、「辛そうで辛くない少し辛いラー油」みたいな立ち位置の役柄が抜群にハマってて、なんか無性に気の毒。
何もかも打ち明けられる器じゃなかったと言われればそれまでだけど、じゃあどうすれば良かったんだよ!まだお若いのに、そこまでハイコンテクストなコミュニケーションを求めるか!?……みたいな……
でも、「あらすじ」でなく「脚本」になると、もう全然違う。
巧みに登場人物の視点と時系列を入れ替えながら、淡々と言葉を畳み掛けられるうちに、どのキャラの気持ちにも入り込まされてしまいます。
『silent』も「恋人が大ごとを一人で背負って消えてしまう」話だったけど、この脚本家さんは、誰が悪いとか、誰があの時こうすればよかったとか、そういうレベルのことを描きたいんじゃないんですよね。
もっと、気持ちの襞のあわい、みたいな……?
さらにその根っこにある、誰かにちょっと道徳や常識を説かれたくらいでは変えられない「性根」みたいな……?生方さんのような表現力がないのでうまく言えないんですけど……
そういえば『舞い上がれ!』も、主題歌がback numberだった。
彼らの楽曲にも「歌詞だけ一見するとメソメソしてんな~と思うけど、聴くと世界観に引き寄せられ、思いっきり浸ってしまう」タイプのものがあります。
back numberに限らず、歴史上の何人ものアーティストたちが、Xを炎上させそうな「歌詞の主人公」たちを生み出してきました。彼ら、彼女らのメソメソした独白に自分を重ねて泣きながら、多感な時代を乗り切ってきた(または現在進行形で、乗り切っている)方は多いんじゃないでしょうか。
歌だと「この登場人物が悪い」とかあんまり言われない(=抽象化されやすく、受け手が共感しやすい)のに、ドラマだと色々言われちゃうのは何でなんでしょう。
ドラマは「登場人物の言動」を観てナンボだからか……?
だったら小説も「登場人物の言動を読む」ものなんですけど、国語のテストでさせられるみたいに、読者は「登場人物の言動」よりも「その奥にある何か」を読み取ろうとする傾向があるんじゃないでしょうか。
その点においては、文学って、意外とドラマよりも歌に近いのかもしれません。
『海の始まり』の水季(黙って娘を産んだ人)から私が連想する「小説の登場人物」は、『神様のボート』の葉子。
ちなみに「パパ」にも「ママ」にも、それぞれの妻と夫が。
当時Xがなくて(※)良かった……大炎上必至ですよ……!
(※2013年にドラマ化されてて、その頃Twitterはありました。葉子役は宮沢りえさん)
若かりし頃、私はこの物語に助けてもらいました。
数々のメソメソソングにそうさせてもらったように、江國香織さんの描き出す世界にどっぷり浸り、葉子になったり草子になったりして泣かせていただいて、どうにか気持ちに折り合いをつけていた時期がありました。
『落下する夕方』の梨果や『流しのしたの骨』のこと子にも影響を受けたなあ。梨果の「恋人という残酷な錯覚のために」という表現は、今でも事あるごとに脳裏に蘇ってきます。
そんなにお世話になっておいて何ですが、葉子が何考えてるのかは、当時も今もわかんない。
ただ、解説(新潮文庫のカバーの、裏表紙のアレね)に「狂気」とか書かれちゃう公式認定狂人・葉子にも、彼女なりの倫理があるのはわかる。
私は現実を生きる人間だから、リアルに彼女たちの立場に立たされたら「悪者になりたくないし、子供にもお金がかかるし、子の父親にも責任があるし」とか、もっと色々考えちゃう。
葉子にも水季にもなりたくはないしなれないけど、彼女たちは身勝手なようで、彼女たちなりの「倫理」に縛られて苦しんでいる。私が、私の倫理から出られないのと同じように。
「葉子、不倫はダメ!」とか「葉子も水季も、もっと周りの人の気持ちや将来設計を考えて!つみたてNISAとかやって!」って言いたくなりますし、Xはそういう反射的な心の動きをぶつけて良い場所だと思います(二人とも非実在人物で、直接傷つくわけじゃないからね)。
でも、生方美久さんも江國香織さんも、本当に気持ちよく物語の中に「たゆたう」ことをさせてくれる作家さんなので(そういえば『海のはじまり』も『神様のボート』も水辺の印象が強いお話ですね)、そこで葉子や水季や、彼女たちを巡るさまざまな人々の言葉に触れているうちに、視点のレベルが変わってくる。「不倫」ってあくまで「わたしの倫理にあらず」ってことなのかなあ、とか、そんな気持ちにもさせられる。この人たちは親やボーイフレンドの愛情とは違った形のケアが必要だったんじゃないか、とか。
フィクションの世界をたゆたっている時は、生きるために築き上げて守ってきた善悪の基準から、離れることができる。ジャッジも糾弾も、しなくてもいい。
それは、彼女たちを肯定したとか自分を曲げたとかではなく、見えている世界がすこし広くなった、思考の切り替えチャンネルがひとつ増えた、ということではないかと思うんです。
そんなこと言ってるそばから、今『光る君へ』観ながらXに「道長てめえ、自宅で不義の相手といちゃいちゃしてんじゃねえ」という意を表明しちゃったんですけど、それも私だし、麻薬のような悲しい歌に脳をどっぷり漬けるようにして、道ならぬ恋に溺れたい私もいます。
よくできたお話には、ツッコミを受け止める力も、想像のタガを外してしまう力もある。そういう物語に出会えたときは、あえて責任感も倫理観も一旦置いといて、波間に身を委ねてしまうのも、良いのではないでしょうか。
ここからは、『海のはじまり』最終回視聴後の追記です。
水季をどうしても許せなくて、苦しいと思っている方へ。
(許せないけど別に苦しくない方も、乗りかかった舟ということで読んでいってくださったら嬉しいです)
私は、あなたの想いを肯定します。
あなたの想いは、『海のはじまり』という作品自体にも肯定されていると思います。
水季や夏くんの年齢だった頃、私はいつも怒ってたし、いつも悲しかった。
家族に、友達に、職場に、政治に。私なりの正義感をぶつけてしまって苦しんだり、ぶつけられずに苦しんだり。そうすることが、私の周りの世界を少し良くもしたし、致命的に破壊してしまったりもしました。
今では、本当に重大な事態でしか怒りません。
いや、怒れません。
歳を重ねると、体力と同じように怒る力も失われて行きます。次にあんなにイライラできるのは、認知症で前頭葉に何かあった時だと思います。
でも私のタイミングとあなたのタイミングは違うので、あなたが何歳かは関係ないです。
今のあなたは、今の私にはない強い正義感を持っている。
あなたはきっと、水季とは違うかたちで、周りの人を大事にしている。
そんなあなたにも読んでもらいたいんです、『神様のボート』。
水季と葉子は似ているようで、違う選択をしています。
人は、何かを捨てて、ひとつしか選べない状況に自分を追い込んでしまう時かある。その時私たちはどうすれば良いのか、どう生きれば自分わ納得させることができるのか。
『神様のボート』にも、『海のはじまり』にも、複数の登場人物の大きな選択が含まれています。
どの人も、誰かに強要された選択ではなくて、自分で選んでいます。
夏の選択にも、弥生の選択にも、幼い頃の記憶を含んだ自分の人生丸ごとが含まれていることでしょう。それは、水季にコントロールされた選択なんかじゃない。
水季の手紙がああいう感じなのは、彼女もまた人生を賭けた選択をしたからではないでしょうか。
ドラマのターニングポイントとなった弥生さんの手紙も、選択の話でした。
それが、あなたが肯定されていると書いた理由です。
どんな選択でも、それがあなたの選択なら、あなたの想いなら、このお話たちは寄り添ってくれる。
だから、今のあなたを否定しないでください。いつかその想いが変わったら、それもまたあなたです。
さて、そういう流れになったら、気恥ずかしくても、これは伝えておかないと。
あなたの幸せを祈ります。
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