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第290話:今日を終わらせる


PREMIUM MALT'Sを買って帰る日は なんにもしない  グーダラしたい

これは戯れ歌に過ぎないが、一日の終わりに何か自分へのご褒美があるのは大事なことだと思う。「ああ、今日はもういい。終わりだ」って酔っ払って寝てしまうのは快感である。

僕らは直線的な時間を生きていると言われる。
今日は明日につながり、明日を追いかけ、明日に追われる。1ヶ月後にはあれがあり、来年はこれがある。

高校生ならば、明日提出しないといけない課題があり、数日後にはテストがあり、大学受験があって、就職して結婚して子供が産まれて・・。その直線上を後戻りもできず前に進むことが常に意識され、その直線からドロップアウトすることには恐怖感がつきまとう。

僕であれば、来年の仕事をどうしようか、その先をどう生きようかを悩み、・・そしてその先に死がある。

そういう時間の意識である。

ある国で100年先までの日付が刻まれたカレンダーが作られたとき、自殺者が急増したという話を聞いたことがある。それはそのどこかに自分の死ぬ日があるということが意識されたのかもしれないが、直線として意識される自分の人生につらさや疲れを感じてしまったからではないかと思ってみる。

疲れている人がたくさんいる。


その直線の魔力を逃れるための一つの発想が、円環的時間の意識だと言われる。

一日が終わるとまた新しい朝が来る。
春が来て夏が過ぎ秋冬を越してまた春が来る。
昭和が終わり平成が始まり、平成が終わって令和という新しい時代が来る。

そんなふうに終わりがあってまた新たな時間が始まり、それが一区切りを迎えるとまた次の新しいが到来する。それが円や環のように繰り返されながらずっと更新されながら続いていく時間の意識である。

いつか終わり、また始まる。
そう考えれば長いトンネルにも暗い袋小路にも耐えられるかもしれない。



ただ僕らは現実には社会システムが要求する直線的時間を生きている。だから、意識的に「終わりと始まりを作る」必要があるのだと思う。
春が来たらお花見をして酒を飲もう。
一日の終わりにお風呂に入って「ああ、気持ちいい」って言ってみよう。

それは自分にご褒美をあげて時間を一度とめる行為なのである。


くだらぬことだが、僕はテニスの大きな試合が終わった日には、なぜかチョコモナカジャンボを買って食べたくなる。

自分に「お疲れさん」と言いながら。
そうすると、ここまでの時間と緊張と疲労がスーっと消えていく。


秋が来ると近くの畑で栗を拾って、カミさんに栗ご飯を作ってもらう。
秋の楽しみのひとつである。

今日も一日がんばりました栗ご飯

これも愚作だが、そんな感じをわかっていただけるだろうか。


区切る

それは一日で言えば「今日を終わらせる」ことである。いくら嫌なことがあった一日であってもそれを引きずらず、明日のことも思い煩わない。
そのために自分へのご褒美を用意したい。何でもいい。ケーキを食べるとか、推しのYoutubeを観るとか、走るとか。


僕は僕で、だから、毎晩、酒を飲むのである。PREMIUM MALT'Sは高いからやたらに飲めない。4リットルのペットボトルの焼酎を麦茶や野菜ジュースで割りながら。

そして寝る前には外に出て、必ずくっついてくる猫と一緒にきれいな月を見ながらタバコを吸う。そうして「今日を終わりにする」のである。


これは決して酒飲みの詭弁ではない。


■土竜のひとりごと:第290話


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