第16話:I was born
親と喧嘩したとき最後の捨てぜりふに、「生まれたくて生まれて来たんじゃねえ」などと言ったことのある人もいるかと思う。
そんな台詞を吐いたところでどうなるわけではないのだが、言われる親にとっては返答のしようもないわけで、親を黙らせるには効果的な言葉であるようだ。別にそう言えと勧めているわけではない。
しかしよく考えてみると、僕らは確かに生まれたくて生まれて来るわけでもなく、生まれることについて自分の意志が働くわけでもない。言ってみれば生まれさせられるということになる。
生物としてそれは自然であり、また当然のことなのだが、これほど意識というものが発達した人間が、その存在の最も基本である誕生にだけ何の意識も意志ももてないということは、不思議であったりもする。
自分という存在が何故存在するようになったのか、あるいは、何故いま自分というものが存在するのかなどということは、誰しもが一度は考えるのだと思う。それは案外、自分の望むような生ではない、自分の在り方への疑問といったかたちで意識される。
例えば僕らが自分の意志や責任でない生を押し付けられ、それを変えることが出来ない状況を、いま不条理と呼ぶとすると、僕らの人生や存在自体が、そのまま不条理であるということになる。
何故いま自分がここに存在し、何故こうした存在として生きていなければならないかは誰にも分からないのであり、僕らは与えられた生というものを与えられたままに生きて行くよりほかに仕方がないのである。それは所与だと言うことができる。
中島敦の『山月記』で、その狭量な人間性から人食い虎となり、かつての親友に襲い掛かろうとした李徴の言葉。
カフカの『変身』におけるグレゴールザムザ
これらは、そうした人間の不条理、変更不可能な状況を強いられて生きる人間の比喩であろう。
しかし、人は、こうした不条理を乗り越えなければならない。
国語の教科書にはよく登場するが、I was born という散文詩が吉野弘にある。著作権があって全部紹介できないが、英語を習い始めた少年が妊婦を見て、I was born が受身形であることを思いつき、
と言う。それに対して父は無言で暫く歩いた後、思いがけず、蜉蝣の話をする。生まれてから二、三日で死ぬ蜻蛉。何のために世の中へ出てくるのかという疑問を抱き、それを友人に話すと友人が蜉蝣の雌を拡大鏡で見せてくれた。そのときの思いを子供に話す。
口は退化して食物を摂取できない。胃の中にもなにもない。しかし、腹から胸まで、卵がぎっしりと詰まっている・・。
自分が生まれて来たことを気軽な気持ちで受身と口にした少年は、蜉蝣から母の連想に至るとき、命の継承として、自分の存在と母とつながり、そして母の自分に対する愛を知ることで、自分の誕生に新たな意味を見つけることに成功している。
飛躍でなければ、所与として与えられた命を能動として生きるのだということを思う。自分が生きることに自分の意志と覚悟を見いだして行くことが、ぼくらの生の意味なのかもしれない。
限られた生をどう生きるかということ、あるいは聖域化しつつある多様性という言葉の根幹の意味も、そういう認識のもとで再認識されると、もっと新しい様相を呈することになるのではないかと僕は思ってみたりする。
(土竜のひとりごと:第16話)