蓑虫の歌
空をふわりふわりと雲がゆき 旅に出てみたくなるみのむし
この温い寂しさがいい ぽかぽかと日溜まりにゐるみのむしとゐる
風吹けば風にふはりと揺れてゐてみのむしといふ生き方もいい
「隣の芝生は青い」と言いますが、他人の苦労も考えずに自分以外の生き方が羨ましく見えたりすることがあります。
「猫であればよかった」とか、「鳥のように飛べたら」とか。
でも、そのくせ、それは、それが決して実現されないことも、実は本当にはそう思っていないことも、自分では承知の上でしている「偽りの妄想」にすぎないのですから人間というものはややこしい生き物だと思います。
前にこんな歌を紹介したことがあります。
秋の日は木漏れ日に寝転がっている団栗でもおれはよかったんだが
団栗のようにただひなたぼっこしながら転がっていたい!のでありながら、本当に団栗になりたいわけでもないわけで、単なる鬱陶しい自他の「しがらみ」から一時退却したいだけに過ぎないと言っていいのでしょう。
昔、寺山修二作詞、カルメン・マキが歌った「時には母のない子のように」という歌がありました。メロディーもその歌声も、あるいは寺山と母の関係が思い合わされることもあってか、メランコリックな歌でしたが、何故か心に残りました。
時には母のない子のように/黙って海を見つめていたい
時に母のない子のように/独りで波を見つめていたい
だけど心はすぐ変わる/母のない子になったなら/誰にも愛を話せない
関係の鬱陶しさから解放されたいと思いつつ、その「しがらみ」自体に自分の居場所を求める、人間の「帰巣本能」?とでも言えばいいのでしょうか。
でも、正直に言えば、一日だけ猫や蓑虫や団栗になる道具をドラえもんが貸してくれたら、使ってみたい気がします。
そうですね、
電信柱になって空に向かって突っ立っていたら気持ちいかもしれません。あるいは風鈴になってチリンチリンと鳴っているのもいいですね。
これも再掲の短歌ですが、
僕はかつて風鈴だったことがあり 静かに風に吹かれていたい
・・・。