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第127話:「古池や」とパラドックス
古池やかはづ飛び込む水の音
言わずと知れた芭蕉の名句である。
しかし、僕は何故この句が名句と言われるのか、長いこと解らずにいた。古池に蛙が飛び込む、ボチャンという音がした、という句であるのであって、蛙が水に飛び込んでボチャンと音がしたという極めて当たり前な事実にどういう芸術性があるのかさっぱり解らなかったのである。
これが「閑かさ」をうたった句であることを知ったのは、図らずも高校時代に日本史の授業で、
芭蕉翁ぼちゃんといふとふりかへり
という川柳の解説を受けたときであった。蛙が水に飛び込む小さな音をとらえることによって、古池をつつむ辺りの静寂がかえって際立ち、ただ閑かだと表現するよりも格段の閑けさを我々に伝えてくれる句であると先生はのたまった。
「なるほど」と、十数年知らなかったこの句の真相に、自分のズボンのチャックが開いていたのを人から指摘されたときのように、僕は全く迂開な感動を覚えたのであったのだった。
余りにも有名すぎるものはそれが本当に良いかどうかも考えずに頭の片隅に放置してしまういい例かもしれないが、そう言われてみると、この句が確かに静諮な緊張感を帯びたものに思われてくるからゲンキンなものである。
音をとらえることで逆に静かさが浮かび上がるというこの表現方法も、そう意識してみると、「ドラえもん」が「ドラエもん」ではないことを知ったときのように、「なるほど」と何だかとても新鮮に思われたりしたのである。
くだらない感動はひとまず置くとして、こうした表現を他に思い巡らしてみると、意外に多い。有名なところで拾ってみると、例えば同じ芭蕉の、
物の音ひとりたおるる案山子かな
も、案山子が倒れる音をとらえることで、山あいの?寒村の静かさをよく伝えている。もっと有名なところでは
閑かさや岩にしみ入る蝉の声
という句があって、これは蝉時雨がほとんど決定的に静かなのである。また例えば、
海暮れて鴨のこゑほのかに白し
も、句の趣である静かな寂しさに耳を澄ませば鴨の声や揺り返す波の響きが聞こえてくる。
芭蕉を離れてみても、兼好が徒然草の中で、訪れた山里の静かさを表すのに
木の葉にうづもるるかけひのしづくならではつゆおとなふものなし
と書いている。「かけひ」は水を引く樋のことであるが、そこから落ちる雫の音を描写することで、無人閑寂の、山里の秋の澄んだ気配を僕らに感じさせてくれる。そんな例を拾っていけば、恐らく数限りない。
しかし、考えてみれば、古典を引用するまでもない。
秋の夜長を鳴く虫の声、夜のしじまに響く鹿おどしの澄んだ音、温泉宿の一室に聞こえてくる渓流のたぎち、遠くから響く始発電車の警笛、夏の夕暮れに鳴る風鈴の音、潮騒、松籟・・。
僕らの日常の中にそんなふうに、音がかえって静寂を作り出していることはたくさんある。
喫茶店では音量を押さえてクラッシックのBGMを流すことがよくあるが、あれは曲を聞かせるためにそうするのではなく、静かさを聞かせるための演出なのである。
音をとらえることによって無音を表現する。例えば、音によって無音を聞くなどと言ってみると、ちょっと格好よかったりするわけだが、対立する概念が結びついて微妙なバランスを保つことがよくある。
音だけではない。芥川龍之介は『羅生門』の中で、荒廃した門の様子を表現するのに、大きな柱にとまるキリギリスを一匹描写するのだが、廃塘の中に小さな生命をとらえることで、かえって無人の不気味で無機質な門の様子を伝えることに成功している。「ある」をとらえることで「ない」が生み出されていると言っていい。
空の青さを表現したいときに、そこに一本の飛行機雲を引くのも、同じレトリックだろう。
また例えば、河合隼雄は『心の処方隻』の中で、ある漁船が夜の海で遭難したときの話を紹介しているが、闇の中に灯をかざし必死に方角を知ろうとしている釣人たちの中で、ある男が、灯をすべて消すように言った。
一同怪訝に思うが、気迫に押されて言われたとおりにする。しばらくして暗闇に目が慣れると、陸に灯るかすかな明かりが見えるようになり、その灯を頼りに進んで助かったという話である。
彼はだから「目先の灯を消すことで自分の中の闇に目を凝らす勇気」が必要だと言うのだが、これは見ないことで見えるとも言えようか。
あることでない、見ないことで見るなどというと禅問答のようだが、しなやかな細枝がかえって剛直なものより折れにくいように、弱いことで強いという言い方もよくおこなわれているし、負けるが勝ち、急がば回れなどというのは昔からおなじみの表現である。
こういう表現を逆説表現と言うが、例えば、触れないことで触れる、醜いことで美しいなどと言ってみると、これは恋における見事なパラドックスになっているわけである。
ちなみに不器用で無口な僕という人間をこの方法で表現してみると、無言という雄弁、しなやかな孤独、無意味であることの意味、怠惰なる勤勉、明確なる暖昧、存在のない存在・・などという非常に深みのある哲学的な表現が可能となるわけである。
この間、カミさんが「あなたは目が二つ付いているのに何にも見てない」と僕に迫ってきた。何のことかと思ったら、「あなたは最近私に何の関心もない」と言うのだった。「そんなことないよ」と適当にお茶を濁そうとすると、「じゃ、咋日私が何色の服を着ていたか覚えてる?」と突っ込んでくるので、やむなく適当に「赤」と言うと、当たっていたらしい。
それですごすごと引き下がればいいのに、「今、適当に言って当たったでしょう」と痛いところを突いてくるので、思わず体落としをかけることになるのだが、僕はカミさんの外見や日常に注意を払わないことでカミさんという人間の本質をとらえているのである。
まさに目を閉じて見るということになろう。僕の深淵を見るためには僕の怠惰が実は誠実さであるという逆説を知らなければならない。カミさんは「私の言うことを何も聞かない」と僕のことを中傷するわけだが、カミさんの声を僕はあえて「聞かないことで聞いている」のである。
カミさんに面と向かって言うのはなかなかに恐ろしいものがあるので、せめて、読者のみなさまには、「僕の正しさ」を分かっていただきたく、ペンを取った次第なのである。
■土竜のひとりごと:第127話