第128話:「古池や」と混沌
前話を読んだカミさんが、案の定、怒り出して「全くあなたはどうして私をネタに使うの。読む人が私のイメージを誤解するじゃない。だいたい最近、書くことに清潔感がないのよね。オジサン化しちゃったって言うか。」とのたまった。
「仕方がないよ。オジサンだもん(もうジジイだが)」と思ったわけだが、「いったい出会った頃のあの『土屋君』はどこへ行っちゃったのかしら」などと溜息まじりに言ったりもする。
「仕方がないよ。もうあれから何十年も経ったんだから」と思ったわけだが、そう言えばお互い何十年を経て、随分なオジサンとオバサン、いやオジイサンとオバアサンになってしまったものだと全く関係のない感慨が胸に湧いてきたりもした。
しかし、僕は確かに表面こそジジイになってはいても、清潔で純真な、青く透明な内面を今なお持ち続けているのであって、それを失ってしまったと考えるのは全くもってカミさんの誤解なのである。
その誤解が誤解であることを今から証明してみたいのだが、「そんなことに付き合えるか」と思われる読者の方もいらっしゃるかもしれない。
もしお付き合いいただけるのであれば最大限の優しさを持って、次の愚かな長文にお付き合いいただきたい。
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仮にカミさんの考えているように、僕が若さやそれに付随する清潔さを失ってしまった状態にあるとしたら、その状態は例えば「喪失」という言葉に置き換えることができる。
「清潔さ、純真さの喪失」、これが自分のことだと考えると背筋が寒くなるようなオゾマシイ響きではある。カミさんにとっては「思い出の喪失」ということになるのかもしれないが、「喪失」は恐らく誰にとってもマイナスのイメージを連想させる言葉に違いない。
また仮に「喪失」に対するプラス概念の言葉を探してみるとすると、これは「獲得」ということになりそうである。
「獲得」は「喪失」に対して明らかに優れた匂いがするのであって、「信頼、富と名声の獲得」と何年後か先にある僕の未来のように輝かしいイメージなのである。
しかし、いま全く仮に、この全く正反対の言葉を強引にくっつけてみると「喪失の獲得」という言葉ができあがるが、不思議なことに一見矛盾したこの言葉がこれはこれで一つの意味あるフレーズとして成り立つことになる。
「喪失という状態を獲得する」
例えば「すべてを失うことで人間としての基本に立ち戻った」などという解釈も成り立つであろうし、また例えば「喪失という事すら許されない現代の状態から脱却するスローガン」のようにも聞こえる。
これを逆説的表現と呼ぶわけだが、こうした逆説表現をとることによって「喪失」と「獲得」の間にもう一つ別の新しい概念が生まれることになる。
と同時に、僕らは「喪失」と「獲得」の関係、特に「喪失」のイミが大きく変化していることを感じることができる。
単純なマイナスであった「喪失」は、マイナスではないもの、むしろ人間にとって有用なものに変質している。このあたりに、現代を生きる僕らの基本的な在り方を探る糸口が見えるのではないかと僕は思い、またそれを考えてみることが「僕の美しさ」の証明につながるような気がしたりもするわけなのである。
こうした表現は異なる価値、相反する二つの価値がぶつかり合うことによって生まれる。対立関係を基本とし、それが結びつくことで生じる「ゆがみ」が僕らに違和感を与えるのだろう。
僕らの生はもともと不可解で不安定なものであって、その不安定感と、こうした表現の「ゆがみ」が共鳴するところに表現としてのインパクトがあるのだと考えられる。
例えば、正岡子規の言葉を紹介したい。
彼は脊椎カリエスという死病にのたうち回りながら数々の文学改革を成し遂げた男であるが、その床にあってこう言った。
死ぬ以外にない病の、長く苦しい床にある子規の壮絶な逆説であると言えよう。
生と死の狭間にあって揺れている僕らは、「悟り」が「平気で死ねる」ことではなく「平気で生きている」ことだと言われたとき、その衝撃を通して僕らの生の「ゆがみ」や「ねじれ」を強く意識させられるのである。
しかしそうした「ゆがみ」は、現代では必ずしも不協和音なのではなく、むしろ心地よく耳に響く「なめらかなズレ」としてあるのではないかという気がする。
「しなやかな孤独」と言ったとき、「頑張らない努力」と言ってみたとき、また僕がスローガンにしている「真剣に怠ける」でもいい、「透明な寂蓼」「なにもない充足」・・。
それらは明らかに子規の言葉から受ける感じとは異質のものであり、少なくともそこに自分が脅かされるような緊張感はない。
それはそうした二つの概念の間に深い隔たりがなくなってきていることが原因なのかもしれない。
「孤独」「退屈」「何もないこと」「寂しさ」「無意味」・・、そうした、かつては明確にマイナスの色を持った言葉がその強烈な個性を失いつつある。
それは明確な価値基準の喪失だとも言えるが、「孤独」や「無意味」にもマイナスだけにとどまらない価値が見いだされた、あるいは、プラスマイナスという二項対立の単一の価値に寄りかかる考え方から抜け出そうとしているとも言えるかもしれない。
それは僕らの生の「複雑さ・不安定感」を「豊かさ」と捉える姿勢である。
「白」か「黒」かという見方でものを論じようとするのではなく、人間として生きている漠然としたものそのものに目を向ける・・。
言葉遊び的に言えば、それは「灰色」的に考えるということでもなく、例えば「白い黒」「黒でありながら白い」などという状態の発見なのかもしれない。
もっと新しいモラルから僕らの生を眺める視点への、不安定ながら豊かな契機の前に僕らは立っていると言えそうな気がする。
唐突ながら、ひとつお話を紹介したい。
荘子に「渾沌」という話があって、なかなか味わいのある寓話である。
渾沌というのは「天地が未分明でどろどろしている状態」を言うのだが、「事態が混沌としている」などとよく使われる。「カオス」「未秩序」である。そのイメージを持って次の話を読んでみていただきたい。
こんな話である。
「未秩序」でありながら、自然のままに「豊か」に生きていた渾沌に、人間が「さかしら」ぶって「意味」や「秩序」を与えてしまったために渾沌は自分の命を失ってしまう。
ここからいろんなことが言えそうな素晴らしい寓話だが、自分の心の静寂に耳を傾け、心の闇に目を凝らして、もわもわ、どろどろした自分そのものを大切に見つめる必要があるように思う。
僕らが今、迫い求めていくモラルの先に「すがすがしく透明な混沌」のイメージを置いてみると、真実に近いものが見えてくるのかもしれない。
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したがって、カミさんの嘆く僕の「オジサン化」は、「ヨゴレ」や「ケガレ」などではなく、渾沌としたドロドロであったわけであり、それは哲学的に非常に美しい姿だったわけである。
以上で屁理屈に満ちた「言い訳」を終わりたい。
■土竜のひとりごと:第128話