自分らしく生きるとは
「講師の方は(自分のことを)ポジティブって言ってましたが、ポジティブではないと思う。もともとが明るい方で、自分らしく生きられているからそう見えるだけだ。発達障害と言われても頑張っていてすごいと上から目線でいうのはなにか違う気がする」
これは以前、夫が大学でキャリア系の講師として呼ばれた時のアンケートに書いてあった言葉だ。
夫は解離性健忘症で中学の時に突然記憶が消えて、大人になってからADHDと診断された。鬱も経験した。
そんな生い立ちから、どのようにしてキャリアを積み上げてきたかという話をしてきたそうだが、他のアンケートを見てみても
「発達障害と開示していてすごい」
「そうは見えない」
「(逆に)動きが激しかったのでそうかなと思ったらやっぱりそうだった」「発達障害でも自分の好きなことを仕事にして頑張っていてすごい」
というのが多くて、その中でも冒頭のアンケートを書いてくれた子の感性が卓越していて感心してしまった。
確かに「発達障害なのに頑張っていてすごい」は上から目線とも言える。
〇〇なのに、〇〇でもっていうのは同じ特性を持つ人が言えることで、当事者じゃない限りその辛さはわからない。
病気も同じで、なったことがある人しか本当の痛みや辛さ、苦労は分からない。
同情されたい場合以外は「〇〇なのに頑張っていてすごいね」は失礼にあたる。
本人は〇〇であることを否定していないのに、他の人が勝手に同情して「でも頑張ってるよね!」という謎の励ましの言葉を送ってしまうことがある。
これからうちの子も大きくなって社会に出ていくけど、発達あるなし関係なく、みんなが生きやすい社会を作りたい。
今よりもいい世の中を作るのが私達親世代のやることなんじゃないかと最近思う。
先日も、発達障害と鬱を抱える娘のお母さんから相談があった。
「自分が発達障害だと認めれば少し変わるかもしれないが、今は親のせいだと反抗的で家庭内がギスギスしている」と。
確かに、障害という言葉の重みはある。
私も「知的障害児」という言葉を見て、分かっていたけど言葉の強さに衝撃を受けた。
パット見はわからないけど、長く暮らすと「おや?」と思うところや「どうしてこうなるんだろう?」と思うこともあって、それが世間から見る障害なんだろうなぁと思ったりする。
大人になると少し行動や感情は穏やかになるとはいえ、全くなくなるものではない。
就職や社会生活の中でうまく行かなくて生きにくさに繋がることもある。
コミュニティスペース本拠地には、そういう生きにくさを抱えた人たちがたどり着く。
前出の相談くれた方にも伝えたが、
「発達障害という名前が重く感じることもあるかもしれない。
でも、診断を受けてから紆余曲折しながらも自分を活かして仕事をしている方もたくさんいる。
何が不得意で何が得意か、自分のなりたい未来を描いて道筋を立てていけるとまた意識も変わるかもしれない」
そのために、必要なことは小さいながらも全部作ってきたつもりだ。
居場所、仲間、学び、子育て、街、保護猫、生活力・・・
一人で抱えるには限界があるが、色んな人達に生かされて私も生きている。
だから、進んでいけるんだと思う。