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高齢者には医療よりも介護で救われる。

私は、医療従事者ではない。介護施設で高齢者の日常生活に寄り添っている。親子、いや孫ほどの年齢を隔てた間柄には、介護をする側と受ける側としてすごす濃密な時間が、お互いに強い信頼関係と愛情を育んでいる。

施設に来る高齢者は、皆、認知症や体の麻痺などいくつもの困難を抱え人の援助を受けながら、懸命に日々を過ごしているし、介護者もその人のために何ができるか、目をみて、表情や全身から発している声にならない何かを感じられる。そう、ここは病院ではない。便利な検査機器はない。
 でも、お母さんが子供を育てるときだって、子供の目がうるうるしているから、熱があるんじゃないか?とか、帰ってきたときの足音で、今日外で何か嫌なことがあったんじゃないか?とか、相手を想うという、特殊なセンサーが自然に働いて、これはすぐに病院にいくほうがいいとか、少し楽に休ませるほうがいいとか判断できる。体温が37.5度というデータだけではない。

しかしながら、ここ数年、医療への不信感がぬぐえない。

誤嚥性肺炎や、転倒して骨折した方が病院に行き、今まで声をかけてもらいトイレまで自分で行っていた人が、オムツになり、両手を縛られているらしいと、あんなに大人しいお婆ちゃんが何故?と耳を疑うようなことを聞く。
 険しい形相になって退院してくる人も多い。大人しかった人が暴言や暴力をふるうようになるのを見て、どれだけ怖い思いをしたのだろうと胸をしめつけられる。
 病院だと全く食事をしなくなって、胃ろうをつけて帰ってきた人が、施設に帰ってきた途端に、食べたそうな表情になり、ペースト状から食べ始め、あっという間に回復していく。

それでも、施設に戻ってこれる人はまだいい。
脳梗塞などの緊急手術の際に、その後の生活環境などは一切説明されず、気管切開を促され、一生病院を転々とする人。痰が多いからと、家族や本人が望んでいるにも関わらず、担当医師が施設は無理でしょうと診断したからと、リハビリなどもうけられず、療養型病床を転々とし、生きる希望を簡単に奪われる人。

高齢者は、決して助けてもらうだけの存在ではない。
ただ、死を待つだけの存在ではない。
夢をもって生きる権利がある。

たとえ、一日中徘徊していようとも、意味不明のことをずっと話続けていても、傾眠ばかりだとしても、彼らの存在すべてをそのまま愛し、受け入れ、少しでも状態が良くなることを決してあきらめない人がそこにいれば、こころからやすらいだ素敵な笑顔を見せてくれる。

だから、多くの家族の人が最期、お別れの時に言う。

「ここに来れてよかった」と。

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