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光の中へ──ヨハネの手紙第一(2)

ヨハネの手紙第一1:5~7
 私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。
 もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。
 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

(序)

 「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。」(1:5)
 神は光です。しかも、「闇が全くない」と言われるほどの美しい光。ここでヨハネは、「神は光」であるという、キリストご自身から受けた知らせを読者に伝えています。「神は光である」という一言は、神様とはどんなお方かという問いに対するシンプルで、かつ見事に神様のご性質を言い当てた答えだと思います。
 光とは、闇の対極にあります。神様の完全なきよさがここで言われています。そして光は、輝くわけですから、私たちを照らすのです。つまり、暗闇の中にいる私たちを照らして、ご自分が存在していること、そして、救いの道があることを私たちに隠すことなく、伝えてくださる──、それが、光である神様です。
 しかし、そうなると私たちは困るわけです。私たちが、「闇が全くない」と言われる神様の光で照らされたならば、あらわになるものがある──、それは、罪の問題です。そうです。私たちは神様に近づけば近づくほど、自分の汚さや傷がはっきりと見えてしまうから困るわけです。

(1)罪を悔いる

 6節を読みます。「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。」
 「ヨハネの手紙」の背景には、グノーシスと呼ばれる異端との戦いがあったことを覚えておくとよいと思います。6節には、闇の中を歩み、罪を犯し続けながらもなお、神との交わりがあると言い張る人々がいたと記されています。異端であるグノーシスの人々にとって、罪は無きに等しいものでした。なぜなら、彼らにとって、肉体とは私たちのたましいを包み込む単なる容器に等しいものに過ぎないのであるから、肉体がどんなに罪を犯そうが、たましいには何の影響もないと考えたのです(伊藤顕栄「ヨハネの手紙第一」)。
 これは、罪に対するあまりにも軽い態度であり、甘い認識だとは思いませんか。私たちが罪を犯したとハッとさせられるとき、それでもなお、平気な顔で「私は神との交わりがある」と言えるでしょうか。私は言えません。心は後悔と悲しみで満たされ、その結果、肉体も疲れを覚えるものです。心と体を分けて考えることなど決してできないのです。
 そういった罪との戦いがクリスチャンになってからも、私たちにはあるのです。クリスチャンになったからといって、犯す罪の重さが軽くなったりすることはありません。むしろ、罪の重みは増す一方です。なぜ、そうなるのでしょうか。それは、私たちが、神の光に照らされるからだと思います。「闇が全くない」と言われるその光に照らされるからこそ、罪がよく見えて、その罪の重さ、深刻さもよくわかってくる──、だから、人一倍、クリスチャンは罪を悔いるのです。

(2)第三の道

 ヨハネはグノーシスのような罪の捉え方をする異端の考えを退けます。7節を読みましょう。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」
 ここでのテーマは「交わり」です。神との交わりをするためには、私たちも光の中を歩む必要があります。それは、「神が光の中におられる」からです。闇の中に居続けて、光の中に入ることはできません。それは矛盾した生き方であり、あり得ないことだというのです。
 しかし私たちはここでも、また同じことを考えねばなりません。神の光の中を、私たちはどうして歩むことができるのでしょうか。罪に沈み、救われてもなお、つまずき失敗する私たちが、神の光の中に入ってしまうならば、その光に照らされて、恥ずかしい自分、傷だらけの自分、醜い自分がさらされてしまいます。どうしてその光に耐えられるでしょうか。
 矛盾しないように生きようとしても、光の中にいたいと願えば、必然的に私たちの闇が暴かれるのです。それは、苦痛でしかないと私たちには一見思えるわけです。
 しかしヨハネは、私たちに第三の道を示しています。神の光の中に入れられ、その交わりに加えられるとき、「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださ」るというのです。私たちの罪は、光のもとで暴かれるとき、その罪は御子イエスの血がきよめてくださいます。私たちを愛し、救い出すために、イエスは十字架で血を流されました。その犠牲の血が私たちの罪を、雪のように白くしてくださるのです。

「『さあ、来たれ。論じ合おう。──主は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

 ここには、罪を告白する幸い、罪を光のもとにさらす幸いが約束されています。

(3)罪に苦しむこと

 よく考えてみてください。私たちを不幸にし、神様を悲しませてしまう罪は、隠し続けているならば、解決される望みはありません。光のもとで告白し、捨てるからこそ、私たちは罪と訣別することができるのです。箴言26:13にはこのようなことばがあります。

「自分の背きを隠す者は成功しない。告白して捨てる者はあわれみを受ける。」

 私たちが「あわれみを受ける」のは、罪が光のもとで暴かれ、そして、イエスの血によってきよめられる時ではありませんか。
 確かに、罪を告白する苦しみはあります。しかし、その苦しみは、クリスチャンにとっては、たましいの健康な状態の証しだと私は思います。もし、罪を認めず、軽く見たり、甘く考えるならば、先ほど紹介したグノーシスのような異端に走りかねません。
 しかし、罪を罪だと認め、その重さや、その罪がどれだけ神様を悲しませているか、周囲の人々を傷つけてきたかを真面目に正直になって考えれば、罪に苦しむ時間は必ずあると思うのです。ところが、罪に苦しむ時間やプロセスがないのなら、その人が本当に自分の罪の深刻さをわかっているかを私は疑います。
 なんせ、神の「闇が全くない」光が私たちを照らすのです。その光はすべてを暴き、見通します。その光のもとで、私たちが自分の罪を見るならば、どうして罪に苦しむ時間が生まれないなんてことが起こり得ましょうか。クリスチャンにとってのひとつの証しは、きちんと自分の罪に涙する経験があるかないかでしょう。
 罪に苦しむことは、神に捨てられたということではないと言ったのは内村鑑三という人です。いや、その経験こそ、私たちが神の国に入るために通るべき道筋なのだ、と彼は言いました(内村鑑三『ロマ書の研究』)。

(結)光の中へ

 それゆえに、私たちは神がおられる、その光の中を胸を張って歩むものでありたいのです。罪が明らかにされていくなかで、多くの葛藤や痛みを経験することでしょう。しかし、その痛みがあってこそ、自分はクリスチャンなのだと自信を持ってもらいたい。そして、光の中で明らかにされた罪を捨てて、御子イエスの血によってきよめられ続けていき、やがて訪れる完成の日に向けて、私たちは一緒に歩みを進めていきたいのです。
 光が来れば、闇の中にあるものが暴かれます。それは当然のことです。私たちはそこで、光を憎み、罪をきよめられることなく、闇の中に留まるでしょうか。「ヨハネの福音書」3:20ではこのように言われています。

「悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。」

 いま大勢の人々が、光を憎み、光の中に入ろうとしません。しかし、私たちは真っ直ぐに光の中へと入っていきたいのです。

「しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。」(ヨハネ3:21)

 もしも今、自分の罪が心のうちに示されている人は幸いです。なぜなら、その人は今、神の光に照らされているからです。ですからどうか、その光を憎むことなく、その光を愛し、その光の中で御子イエスの血によるきよめを受ける者となってください。お祈りをします。


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