掌編「合羽少女、自転車に跨る」
昼前だった。国道五十一号は相変わらず混雑している。目の前の信号が赤であるためブレーキを踏んだ。昨日から雨が降っていた。時に本降りになり、また小康状態になりながら、ずるずると燻るもったり厚い雲が、空を覆って街の向こうまで続いていた。ハンドルを掴んだまま、車内で首を回した。運転は嫌いではなかったが、連日視界が悪いとやはり肩が凝る。ぐるり弧を描いた視線はそのまま二回転して運転席の窓の外へ向けられた。そして、とある地点で止まった。
横断歩道の入り口に、一人の少女が立っていた。小学校三年、いや四年生位だろうか。すらり伸びた手足から、少しお姉さん、と云った印象を持った。少女はこの雨の中、自転車に跨っている。両の手はハンドルを握り締め、ヘルメットを被った頭は向かいの信号を真っ直ぐに捉えているようで、ひたすらに青を待っているらしく見える。ピンク色の合羽を着ていた。雨滴の滴る合羽のフードの縁は透明に作られており、少女の瞳は世界にしかと映し出されている。その目と、眉が、一息にこちらの視線と思索を席巻した。
少女は毅然としていた。眉は凛々しく立ち、瞳は怒りさえ思わせる強さ滲ませて片時も前を離れない。サドルに腰を下ろしても足裏は地面にしっかりと届くはずの所を、自転車に跨って、その実仁王立ちであった。口は真一文字に結ばれて、愛想の笑顔など許しそうにない。間もなくこちら側の信号が青に変わった。アクセルに足を乗せ、車を緩やかに発進させる。視界から消え去る前にもう一度少女を眺めた。やっぱり前を向いていた。毅然として、仁王立ちであった。
何が在ったのだろう。あの少女に一体何があったのだろうと、何故だか妙に気になって仕方が無かった。ワイパーがフロントガラスの雨粒を左右に払いのける。忽ち新たな粒が視界を滲ませる。せめてあの子の帰り道が、雨上がりであればよいと思った。
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弟が熱を出した。四歳の弟は口が生意気で、喧嘩もよくする。けれど仲良く遊ぶ時もある。やっぱりかわいい弟だと思う。そんな弟が高熱を出した。お母さんが、何が食べられそうって聞いたら「うどん」と答えた。ほっぺが真っ赤な弟がうどんとだけ答えて、苦しそうに布団の中で喘いでいる。お母さんは丁度うどんを切らしていると云って困った顔をした。お母さんは看病があるから家を空ける訳にいかない。私が買って来ると言った。
お母さんは心配した。外は今雨が降っている。それに一番近いスーパーは片側三車線の大きな道路を渡らなくては辿り着けないからだ。信号機はあるけれど、交通量が多くて、小さな子どもを一人で渡らせるにはどうしても心配な通りだったのだ。
「大丈夫、絶対行ける」
私は力を籠めてそう言った。早く弟に美味しいうどんを食べさせてあげたい。それから薬を飲んで早く楽になって欲しい。
「ちゃんと車をよく見て渡るから大丈夫。スーパーの場所もわかるし、うどんの売り場も知ってる。いつものでいいよね?セルフレジもお母さんと行った時見てたからわかるよ。もしもよく分からなかったらすぐに店員さんに聞く」
必死になって言い募ると、お母さんはとうとう「わかった、お願いする」と言った。お母さんの財布から自分の財布へ、五百円玉一枚を預かった。二十八円のうどんを三玉。おつりとレシートを忘れずに財布に入れることを約束した。
「自転車で行ってくるね」
お母さんはまた不安そうな顔をした。
「その方が速いもん。ちゃんと合羽を着ていくから」
お母さんは最後迄渋ったけれど、弟が待っているから、私はもうヘルメットを被った。家を出て、辺りに隈なく目を凝らした。気を付けて、出来るだけ早く、安全に。ハンドルをぎゅっと握り締めて、ペダルを懸命に漕いだ。大きな道路で信号に引っかかってしまった。急いでいるのに。私は信号を睨むようにして青に変わるのを待った。気が付いたら立ち上がっていた。
帰りはいつの間にか雨が殆ど止んでいた。無事にうどんを買って帰ったら、お母さんは凄く喜んでくれたし、弟もよく食べた。今は薬を飲んで眠っている。早く元気になって欲しいと思う。安心したら自分もお腹が空いた。
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それはとある雨の日の国道五十一号線の一場面。切り取った二つの現在は交差点で刹那に交錯して、また刹那に通り過ぎて行くだけ。決して関わる事はないけれど、知らぬ間に交わった、二つの物語。
おしまい
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