見出し画像

瀕死の白鳥 (バレエ)

サン=サーンスの「白鳥」の音楽に振り付けられたソロ作品。伝説のプリマ、アンナ・パヴロアは世界中でこの作品を踊り、名演とともに、その名は不滅となりました。わずか三分の中に、死に行く白鳥の儚い運命が描写されています。この作品は、パヴロアがマリインスキー劇場で行われる慈善公演で踊るために創作されました。振付師ミハイルの回想によると殆ど即興で出来上がったものだといいます。

音楽が聞こえると、何もない暗い舞台の左から一羽の白鳥がゆっくりとパ・ド・ブレで現れる。傷つき衰弱しながらも、天に向かって飛び立とうと、羽ばたきを繰り返すが、虚しく崩れ落ちてしまう。再び舞い上がろうとするも、だんだん力尽き、最後は地面に倒れ、ひっそりと息を引き取る。あとには静寂が残る。

アンナ・パヴロア(1881〜1931)は二十世紀初頭のロシアを代表するバレリーナ。ロシア革命の騒乱を逃れてロンドンに移住。その後は自前のバレエ団を結成し、世界中で活躍しました。パヴロアは1910年から亡くなる1931年までの20年間に世界30ヶ国を旅しましたが、コンサートで必ずといっていいほど踊られたのが「瀕死の白鳥」でした。そして、この作品を通してバレエを見た事がない人にも深い感動を与え、世界中にバレエの種を蒔きました。

大正11年(1922)には日本を訪れ、東京、横浜、京都、大阪など11都市を巡演しました。六代目尾上菊五郎との交流はよく知られています。白鳥が死ぬ間際の演技に感心を持った菊五郎が、舞台の袖に隠れて、パヴロアが息を止めている秘密を突き止めたというエピソードが残されています。

パヴロアの踊るオリジナルの振り付けは、映像記録では、アラベスクなどの技巧は一切見られず、まさに白鳥の化身といわれます。パヴロアはツアー中のオランダで急死。彼女の名を汚さぬよう「瀕死の白鳥」は以後20年間、誰も踊る事がありませんでした。

その後は、数人のバレリーナの名花たちによって作品の精神が引き継がれていきます。中でもマイア・プリセツカヤの波打つように柔軟なポール・ド・ブラには定評があり「瀕死の白鳥」の第一人者として名高いものでした。しばしばアンコールに応えて踊りましたが、振り付けが同じだったことは一度もないと言われています。マイア・プリセツカヤはロシアバレエ界の伝説的なバレリーナでした。20世紀最高のバレリーナと称されました。80歳を越えてもなお、現役として世界中の舞台に立ち続けましたが、2015年5月2日、89歳で心臓発作のためドイツで亡くなりました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?