それでも、私は生きていく。
療養を始めて3度目の春が来た。
私は、人生で2度と同じ春は来ない ということを知っている。
1年前の桜も2年前の桜も、ひとつだって同じものは、なかったはずだ。
ちょうど2年前の今日、私は とある精神科 に辿り着いた。これが現主治医との出会いである。
主治医は私に淡々と告げた。
「典型的な双極性障害ですね」と。
「今までさぞ苦しかったでしょう。よくここまで来てくれましたね。来てくれて、よかったです。」
「もう大丈夫。なんとかなりますよ。そのために医者がいます。僕に任せてください。」
台詞はうろ覚えだけれど、そんなことを言われた気がする。
主治医の真剣な眼差し。
それだけは覚えている。
それと、ひたすらに泣く私。
初診は1時間以上あったはずなのだけれど、その内容のほとんどを、忘れてしまった。
「2年前の今日の自分」を忘れてしまうほど、「今」が「過去」とは違う、ということだ。
今日この日まで。
私は「死にたい」と思わなかった日はない。
そして、何度も、何度も、病気を恨んだ。
主治医に八つ当たりも沢山した。
鬱で壊してしまった人間関係もある。
私は病気が嫌いだ。
憎くて憎くて、たまらなく、悔しい。
病気なんて、ないほうがいいに決まっているのだ。病気になってよかったことなんて、ひとつもない。
けれど、病気は私にいろんなことを教えてくれた。
命の尊さ。
命の重さはみんな等しいということ。
人はいつか必ず死ぬということ。
人は、世界は、自分が思っていたよりもずっとずっと優しくてあたたかい、ということ。
「生きていたらいいことあるよ」なんて、まやかしだ。いつも死と隣り合わせで生きている私たちには、そんな薄い綺麗事は響かない。
でも、たしかにいいこともあった。
人の優しさにたくさん触れられたこと。
「私は、ここに居ていい。」
出会った人々が、私にそう思わせてくれたのだった。
「生きている必要なんて、意味なんて、あるのか」
医者は「意味なんてない。ただ死ねないから生きているだけ。それでいい。」と言う。
そう。
私には、今ここに生きている意味なんて、ない。
今日この日まで、私は死ねなかった。
2年もあったのに、死ねなかった。
2年も生きてしまった。
また、桜が咲いてしまった。
意味も価値もない。生きている必要があるのかさえも、わからない。
それでも私は、これからも生きていこうと思う。
もっと生きてほしかった、旧友のぶんまで。
きっと私より先に旅立ってしまう、親愛なる恩師のぶんまで。
いま私を愛してくれている全ての人たちに、精一杯の感謝と愛を込めて。
「生きていくこと。」
それが唯一、「今とこれからの私」にできる最大の恩返しであり、社会貢献なのである。
また、過去の自分に対しての償いと慰めでもあるのだ。
2年前の私へ。
あのとき主治医が言ってくれた「大丈夫」は、本当だったみたい。
まだ、生きている。
ちゃんと、ここに、生きている。
死ななかった。
病気とたくさん闘ったし、向き合った。今もね。
そして「大丈夫」という言葉を、少しだけ信じられるようになった。
「生」への希望も期待もない。
だが、私は「死を諦めた」のだ。
だから、私はこれからも生きていく。
病気が私に教えてくれたから。
「ただ生きている。」たったそれだけのことが、あまりにも儚く、あまりにも尊いことなのだ、と。
来年の今日は、
今日よりもっと、笑っていたい。
「また桜が見られて幸せだ」と思えていたら、それでいい。
さあ、進もうか。
3度目の春から、4度目の春へ向かって。