ーはじめに:本当の英雄は誰だ
前回まで私たちが自分自身につく嘘の性質とその影響について扱ってみた。この度は、今生きているこの世界と時代に秘められた不思議な原理を少し語らせていただきたい。
いつからなのか、正義を味方にする役よりそれに対敵する悪役の方を魅力的に描写する映画やドラマが増えた気がする。前者はどこか生真面目で古臭くて面白くないイメージで、後者は容姿も言葉遣いもオシャレで何かミステリアスな過去を持っていることが多い。なぜか前者の言うことは退屈に感じ、後者の発する言葉は不意をつく名言となって拡散される。
何かしらの理由で悪役(悪者、怪物)になってしまった主人公はもっと観客からの人気を集めやすい。悪役にならざるを得なかった(?)経緯に十分な物語が付与され、それに感情移入をしてしまった観客たちは思わず彼を応援したくなる。そう、間違っているのはこの世界だ。仕方ないじゃないか、復讐のためには。勝つための手段を選ばない精神も、かっこいい。とかを言いつつ。不幸な過去を踏み台にした主人公がこれから行う全ての行動には「不幸な過去」という万能な合理化の装置がはたらく。実に怪物と化した主人公の魂は心配にならないようだ。
このアニメでは、鬼たちが強い精神力と身体能力を持った主人公たちと戦う度に「鬼にならないか?」と聞く。鬼になったら死ぬことも手足を失う恐れも過酷な訓練を続ける必要もないと誘惑する。人間がどれだけ足掻いたとして鬼には勝てないと挑発する。しかし、それで鬼になった黒死牟がどうなっているか、私たちはもう知っている。
真の英雄になれる資格は、鬼の狡猾な囁きに揺れることなく、不遇な過去にも関わらず自分の使命を果たすことだけに集中し、人間としての自分(善良な心と責任)を守り抜くためには死んでもいいという覚悟ができた人物に与えられるものではないか。煉獄さんの生き様からは確かに学べる部分がある。
ー完全なる暗闇の中で我々は
よく「鶏が先か、卵が先か」といった甲論乙駁がされることを見る。似た感じで「影あっての光」という言葉もある。今日ここで、どっちが先なのか、何のために何が存在するのかをめぐる論争に決着をつけようと思う。
暗闇、悪、死亡という実態的で実質的な概念は何一つ「良いところ」を有しない。我々にとって全く必要のない害悪な存在に過ぎない。それが耐えられる能力が人間にはないからだ。必要のない物事は極力お断りしたい。私に必要な物事に集中するだけで精一杯だ。
ー世界の秘密:ヴィランとセイント
だとしたら悪それ自体や悪役を担っている人には、本当に何の意味もないのか?彼らがこの世に存在する理由や機能について疑問に思われるかもしれない。悪の存在価値をもう少し考察してみよう。
やはり悪は善を証明するために存在しているとの結論に至る。逆を言えば、それ以上悪には何の意味も意義もないということだ。その意味さえも結果的に「聖人」が輩出されたから与えられたものだ。悪より善、怪物になるより真の英雄になることに焦点を当てるべき理由が増える一方だ。
「美しくてみっともなくて善良で悪質なこの世の全てが、ひたすら『聖人(Saint)の輩出』という一貫した美しい目的のためにはたらいている」
この上ない美しくて素敵な世界の原理ではないか。これが事実なら、私は美しさとみっともなさと善良さと悪質さが一時的に共存しているこの世を、耐え続けられそう。
ーおわりに:曲げずに生きよう
私が休学を決めてから田舎に入り込む前に、大学周辺にあった一人暮らしの家を退去する必要があった。3階建ての6畳のワンルームは、私にとっては初めてのちゃんとしたねぐらだった。それまで4年ほど学生寮生活をしていたため、自分だけの空間ができたことに非常に感激した覚えがある。狭いしセキュリティ設備は全くなかったけれど、日当たりがとても良くて気に入った部屋だった。引っ越しが決まり、最低限に揃えていた家具と家電を一部は売って、一部は捨てて、また一部は部室に置かせてもらうことにした。家具家電は出張買収の方に依頼してみようと思った。その時、査定をしに来てくださった方から聞いた言葉が未だ印象に残っている。
その方は大学生から査定の依頼があったのは初めてだと、興味深そうな顔をされていた。(当時の私は査定というものが何なのかよく知らなかった。ニトリやネット通販で買った家具家電を売るようなところではなく、おじいちゃおばあちゃんたちが時計とかアクセサリーを売るためによく利用するサイトだったことも後から知った。)微妙な時期に引っ越しを決めた理由や私の今後について聞いてくれた。他人に何かを説明する準備ができていなかった私は、曖昧な言葉だけ残して無理やり笑顔を作り出した記憶がある。(本社に家具の写真を送って推定価格が出るまで結構時間があったので、色々話せた。)そのような私に向けて、彼が言ってくれた言葉だ。
奥さんとお子さんのためにお金を稼いでいると言っていた彼の、どこか寂しそうな顔と声を覚えている。お金と家族を理由に、彼は彼自身の中の何かを曲げてしまったようだった。彼が屈服した相手は誰だっただろう。それは本当にお金や顧客や同僚や実績といったものだっただろうか。彼が曲げてしまったものは何だっただろう。それは、もしかしたら信念とか良心といったものだったのではないだろうか。
しかし、私たちは信念や良心を曲げざるを得ない正当な言い訳なんかは存在しないと、そのような言い訳が受け入れられることはないと分かっている。お金も家族も言い訳にはならない。ただ、心に嘘をついてしまった悲惨な生き物が残ってしまうだけなのだ。
PS。職業に貴賤なし。何をしながら誰と関わりながら生きていようが、重要なのは「善良な心」を守っているか否かだ。
sorakotoba