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これが「世界の秘密」ってやつか


ーはじめに:本当の英雄は誰だ

 前回まで私たちが自分自身につく嘘の性質とその影響について扱ってみた。この度は、今生きているこの世界と時代に秘められた不思議な原理を少し語らせていただきたい。

 強くならねば。
 義理人情で気が弱くなったらもっと大切なものを失うことになるんだよ。
 残酷な世界だから。
 悪魔を捕まえるにはもっと酷い悪魔にならないと。
 必ずしも悪い怪物だけが存在するわけではない。良いやつもおるかも…。

 ここ最近、映画やドラマなどに頻繁に登場する様になったナラティブ。可哀想に思って生かしてあげたら、まもなく本性を現して裏切って、主人公の家族や友達や恋人の命を奪うシーンの後からよく登場したりする。大好きな人の死に血と涙を流した主人公は気を引き締めて、それ以上不要な(?)義理人情なんかを捨てて怪物になろうと思い定める。そうしたら神秘的な破壊者の力を手に入れ、その怪物的な能力で悪者たちをぶん殴ってグチャグチャにして勝利する。いつの間にかクリシェとなってしまったストーリーの展開だ。

 怪物を捕まえるには怪物になるしか…。それっぽい話だ。普通の怪物より偉い怪物になれば普通の怪物ぐらいはやっつけられるはずだ。だが、その過程で怪物中の怪物になってしまった主人公は一体何なんだろうか。観客は愉快に感じるかもしれないが、それは瞬間的な感情を上手く利用して誤魔化しているだけだ。

 怪物になってしまった主人公が敵の本拠地を攻撃する。その中で、見張り役をしていた相手側の新入り-今日入ったばかりの-を軽々しく殺してしまう。悪者側の中核的な存在の中には弱みを握られたり家族を害すという脅迫に耐えられず仕方なく協力していたりする人々がいるかもしれないのに、とにかく愉快に爆弾でぶっ飛ばしてしまう。そうやって手に入れた勝利を、果たして本当の勝利と言えるのか。

 悪い奴らを全部やっつけた後、残されるのは怪物になった主人公のみだ。結局のところ物語は人間が怪物に変わる過程に関するもので、合間合間に広がるあらゆる悔しい思いや被害、ロマンス、視聴者の感受性に訴える出来事などは、怪物になることを合理化するための装置に過ぎない。もし、このような装置なしで初っ端から主人公が怪物として登場していたら、客の好感を得るのは失敗して当たり前だろう。

 味方だろうが敵だろうが人間には各々の事情があり、理屈がある。それなのに怪物の登場を合理化する物語装置に騙されたら、悪い奴らは「全員殺すべき対象」になり、怪物は「神的な英雄」になる。人間の感情的な反射反応が組み合って出来上がった嘘なのだ。

 誰が死ぬべきで誰が生きるべきなのかについて公正な判決を下すには、個々人のすべての人生史と心の中の想いまで見破ることのできる神的な能力を持っていなければならない。大好きな人が亡くなったことに対する怒りで怪物になってしまった一介の人間にできることではない。裁判官の資格があるとしてもダメなのだ。

 人間の限界を勘案すれば、本当の英雄は、怪物になることを拒んで自分の命を犠牲にしてまで良心と正義を守ることによって、その姿を見守っていた他の人々に同じく行動できると勇気を与えられる人だ。死ぬ寸前まで、どんな誘惑と脅威にも屈せず、きれいな良心のもとで堂々と生きて去ってゆく人だ。他人のことを自分の身体のように愛することを最後まで止めることのない、真の英雄はそういう人だ。

 怪物になれという、遺伝子改造でスーパーヒューマンになれという、トランスヒューマンになって超人的な力を発揮してみろよという、さまざまな誘惑がポップカルチャーの中で日々盛り上がっていて、これからはその現象がもっと加速すると考えられる。しかし、そのような内容でメディアが侵食されるほど、大衆の目を引く効果は半減されるだろう。多分次のような話題の作品が出されるとしたら反響を呼ぶのではないか。

「果てまで怪物と戦ってやる。でも私が怪物になることは決してない。その末死ぬとしても。」

-「怪物を捕まえるためには怪物になれ、という嘘」中

© 2023. Sky Tree all rights reserved.

 いつからなのか、正義を味方にする役よりそれに対敵する悪役の方を魅力的に描写する映画やドラマが増えた気がする。前者はどこか生真面目で古臭くて面白くないイメージで、後者は容姿も言葉遣いもオシャレで何かミステリアスな過去を持っていることが多い。なぜか前者の言うことは退屈に感じ、後者の発する言葉は不意をつく名言となって拡散される。

 何かしらの理由で悪役(悪者、怪物)になってしまった主人公はもっと観客からの人気を集めやすい。悪役にならざるを得なかった(?)経緯に十分な物語が付与され、それに感情移入をしてしまった観客たちは思わず彼を応援したくなる。そう、間違っているのはこの世界だ。仕方ないじゃないか、復讐のためには。勝つための手段を選ばない精神も、かっこいい。とかを言いつつ。不幸な過去を踏み台にした主人公がこれから行う全ての行動には「不幸な過去」という万能な合理化の装置がはたらく。実に怪物と化した主人公の魂は心配にならないようだ。

劇場版「鬼滅の刃」無限列車編

 このアニメでは、鬼たちが強い精神力と身体能力を持った主人公たちと戦う度に「鬼にならないか?」と聞く。鬼になったら死ぬことも手足を失う恐れも過酷な訓練を続ける必要もないと誘惑する。人間がどれだけ足掻いたとして鬼には勝てないと挑発する。しかし、それで鬼になった黒死牟がどうなっているか、私たちはもう知っている。

猗窩座「鬼になれよ、杏寿郎。」
煉獄さん「俺は君が嫌いだ。俺は鬼にはならない。」
猗窩座「まだわからないか。攻撃を続けることは死を選ぶということが。」
煉獄さん「(ガン無視)」

たしかにかっこいい

 真の英雄になれる資格は、鬼の狡猾な囁きに揺れることなく、不遇な過去にも関わらず自分の使命を果たすことだけに集中し、人間としての自分(善良な心と責任)を守り抜くためには死んでもいいという覚悟ができた人物に与えられるものではないか。煉獄さんの生き様からは確かに学べる部分がある。


ー完全なる暗闇の中で我々は

 よく「鶏が先か、卵が先か」といった甲論乙駁がされることを見る。似た感じで「影あっての光」という言葉もある。今日ここで、どっちが先なのか、何のために何が存在するのかをめぐる論争に決着をつけようと思う。

 影あっての光。
 死があるからこその命。
 悪が存在するために善が存在する。

 ドラマや映画はもちろん、文学徒や思想家の口を通して絶えずに繰り返されてきたこれらの台詞。この代表的な嘘は非常に害悪だ。尤もらしい言い方をしていて一度ハマったら道に迷いやすい。村上春樹が言ったように、一度道に迷えば、森は限りなく深くなるのだ。

 人間は闇に耐えられない。だから闇の中では眠っていたり死んでいたりしなければならない。夜のことを闇だと思っているなら勘違いだ。私たちがまともな精神で夜を乗り越え、たまには特有の趣深さまで楽しめるのは、夜の闇のおかげではなく、月と星、せめてランプの灯りでもあるからだ。完全なる暗黒を想像してみろ。一歩先のことも何もかもが見えない、完全な暗闇の中で、人間は空間を見分けられなくなり、次いでは時間も見失ってしまう。もしかしたら呼吸法も忘れてしまうかもしれない。音楽みたいなのが聴けるならまだいい方だろうが、それも一時凌ぎなだけで、近いうちに幻想を見たり気が狂ったりしても全然おかしくない。完全な暗闇っていうのはそういうものだ。闇が光を際立たせるどころか、光が闇を「耐えられる」ようにしているに過ぎない。

 死や悪も同じだ。闇に耐えられぬよう、人間は死や悪にも耐えることができない。悪に苦しみながらも生きていけているとしたら、それはまだ完全な悪の支配の下にいるのではなく、また「少しの善」がどこかで働いているからだ。完全なる暗闇、完全なる死亡、完全なる悪を人間はどうしても耐えられない。従って、闇があるからこその光とか、死があるからこその命とか、悪があるからこその善とか、そのような言い方はそれっぽい言葉遊びに過ぎない。念入りに窺うと事実とは全く違う。暗闇に何かしらの徳があるとしたら、神が夜空に無数の星と月を撒き散らして暗闇を遮ったような事はなかったはずだ。暗闇には何の徳もない。夜はただ色んな理由にして昼間より光の必要性が低いだけだ。もしくは暗闇の害悪と光の大切さを吟味する時間だ。完全な暗闇は、この世が始まった以来一度も存在したことがないという事実を覚えるべきだ。

 完全な暗闇はお断りだ。けれど、完全なる光は理想像だ。(そのため、人々はイギリスよりカリフォルニアのお天気を好む。)完全な死亡は御免だ。けれど、完全なる生命は理想像だ。完全な悪は結構だ。けれど、完全なる善は理想像だ。たぶん、真実はこうなるだろう。

 光は暗闇が不要という証拠だ。
 生命は死亡が不要という証拠だ。
 善は悪が不要という証拠だ。


 我々は、光で、生命で、善で、暗闇と死亡と悪なんかは全く必要がないと証拠付けるべきだ。裏を返せば、「必要ない」ということを証明するためにそれらが一時的に必要なだけだ。

-「悪あっての善という嘘」中

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 暗闇、悪、死亡という実態的で実質的な概念は何一つ「良いところ」を有しない。我々にとって全く必要のない害悪な存在に過ぎない。それが耐えられる能力が人間にはないからだ。必要のない物事は極力お断りしたい。私に必要な物事に集中するだけで精一杯だ。


ー世界の秘密:ヴィランとセイント

 だとしたら悪それ自体や悪役を担っている人には、本当に何の意味もないのか?彼らがこの世に存在する理由や機能について疑問に思われるかもしれない。悪の存在価値をもう少し考察してみよう。

 ふと、善人も悪人も皆が崇高だという考えが思い浮かんだ。もちろん、ヴィラン(悪人)がそれ自体で崇高でいられるわけではない。彼らが密室でやっている仕業は本当に、言葉を失わせるほどみっともない。どこまでも「結果論的に」彼らの存在が崇高な性格をもつ何かとして働かされるという話をしているのだ。本当にそうだとしたら、私たちはこれから誰かを憎んだり呪ったりする理由がなくなるかもしれない。

 このご時世に天を仰いで一点の恥辱(はじ)もなく生きている人がいるとしたら、誰でも崇高だと思うだろうが、どうやって悪人を「崇高だ」という単語と結びつけられるというのか、と首をしきりにかしげやすい。しかしながら、人類歴史上であれだけ珍しかった「聖人(Saint)」たちを作り出したのは、一体誰なのか?まさに彼らの周りをうろうろしながら苦しめていたヴィラン(悪人)たちなのではないか。

 立派なおとりで口説くなり、嘘で騙すなりして、力を利用して抵抗不能にさせた上で人々の大切なものを奪って破壊して殺す悪人たちが存在する故に、真の宝は隠される。もちろんその過程で多くの人々が苦しまれ、壊れ、死ぬ。そんなことを経験するようになったらこの世には正義なんかなくて、ひたすらカネと能力が全部だと結論づけたい強い誘惑が訪れる。少なくない人々がこの甘酸っぱい誘惑に屈し、どうせ被害者になってしまうのなら、自ら悪人側に回る方を選ぶ。

 でも偽善者や悪人になるのを心の底から拒んで最後まで足掻く少数の人々は結局、世界中のすべてのお金を全部あげるとしても小さい嘘すらも拒めるような能力を手に入れる。良心に傷をつけるぐらいなら命を捨てる方が選べる力が手に入れられる。聖人(Saint)の誕生だ。このように崇高な聖人を一人誕生させるためには誘惑する悪人、盗む悪人、嘘つきの悪人、力で抑えつける悪人など、多くの悪人たちの役割が必須的だ。彼らはまるで科目ごとに聖人をテストする試験監督官のようだ。彼らの試験に全部受かれば、ひとりの聖人が誕生する。聖書の中でイェスが40日の断食後に荒野に出てサタンによる三つの試験を通過したかのように。

 生まれつきの悪人はいないと仮定すれば、世界中の数多くの悪人たちは皆が人生のどこかぐらいで誘惑に膝を曲げた人々だろう。膝を曲げてしまった人々は、自分の罪を認めるのが怖くて良心を叩き倒す。そのあとからは以前の自分としては想像もできなかったような事を平気でするようになる。試験監督官の誕生、もしくはサタンの誕生だ。

 もし天国と地獄が本当にあるとしたら、悪人たちは地獄の火炎に自分の身を投げてまで天国に行く聖人たちを輩出しているようなものだ。どれだけ崇高な「身を殺して仁を成す」の精神なのだろうか。永遠に燃える地獄の火炎の苦痛まで感受して他人のための試験監督官の役割を果たす対価として彼らに与えられたものとは、罪を犯すごとにしばらく感じられる清々しい快感のみだ。いったい、どれだけ多くの人々が様々な理由で自分自身を合理化しながら試験監督官の役割を自任しているのか。実にこの世は崇高な人間で溢れていると言えざるを得ないのだ。

 このような観点を獲得すれば、世界は以前とは全く異なる場所として認識される。側から見ては残酷で不条理で悲しい世界だが、最も深い内面の底を覗いてみれば、「美しくてみっともなくて善良で悪質なこの世の全てが、ひたすら『聖人(Saint)の輩出』という一貫した美しい目的のためにはたらいている」といった解釈が可能になるからだ。このように美しくてはっきりした目的のもとで回っている世界には、ヴィランとセイント、二つの種類の人しかいない。そして最後の息が絶えるまでにはすべてのヴィランにもセイントになれる小さい門が開かれている。しかし、非常に少数のヴィランだけがあの狭い門を通過してセイントになれる。

-「ヴィランの崇高さについて」中

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 やはり悪は善を証明するために存在しているとの結論に至る。逆を言えば、それ以上悪には何の意味も意義もないということだ。その意味さえも結果的に「聖人」が輩出されたから与えられたものだ。悪より善、怪物になるより真の英雄になることに焦点を当てるべき理由が増える一方だ。

 「美しくてみっともなくて善良で悪質なこの世の全てが、ひたすら『聖人(Saint)の輩出』という一貫した美しい目的のためにはたらいている」

 この上ない美しくて素敵な世界の原理ではないか。これが事実なら、私は美しさとみっともなさと善良さと悪質さが一時的に共存しているこの世を、耐え続けられそう。

お馴染みのヴィランたち


ーおわりに:曲げずに生きよう

 私が休学を決めてから田舎に入り込む前に、大学周辺にあった一人暮らしの家を退去する必要があった。3階建ての6畳のワンルームは、私にとっては初めてのちゃんとしたねぐらだった。それまで4年ほど学生寮生活をしていたため、自分だけの空間ができたことに非常に感激した覚えがある。狭いしセキュリティ設備は全くなかったけれど、日当たりがとても良くて気に入った部屋だった。引っ越しが決まり、最低限に揃えていた家具と家電を一部は売って、一部は捨てて、また一部は部室に置かせてもらうことにした。家具家電は出張買収の方に依頼してみようと思った。その時、査定をしに来てくださった方から聞いた言葉が未だ印象に残っている。

「これからも頑張ってくださいね。僕みたいに勉強も何もせず生きて、このような職についてしまったら、自分を曲げないといけない瞬間がきます。人に対して、仕事に対して、自分の中の何かを曲げざるを得ない時が来るのです。」

大体の夫が、父が、このような考えをしているはずだと思うと胸が詰まる感じがする。

 その方は大学生から査定の依頼があったのは初めてだと、興味深そうな顔をされていた。(当時の私は査定というものが何なのかよく知らなかった。ニトリやネット通販で買った家具家電を売るようなところではなく、おじいちゃおばあちゃんたちが時計とかアクセサリーを売るためによく利用するサイトだったことも後から知った。)微妙な時期に引っ越しを決めた理由や私の今後について聞いてくれた。他人に何かを説明する準備ができていなかった私は、曖昧な言葉だけ残して無理やり笑顔を作り出した記憶がある。(本社に家具の写真を送って推定価格が出るまで結構時間があったので、色々話せた。)そのような私に向けて、彼が言ってくれた言葉だ。

 奥さんとお子さんのためにお金を稼いでいると言っていた彼の、どこか寂しそうな顔と声を覚えている。お金と家族を理由に、彼は彼自身の中の何かを曲げてしまったようだった。彼が屈服した相手は誰だっただろう。それは本当にお金や顧客や同僚や実績といったものだっただろうか。彼が曲げてしまったものは何だっただろう。それは、もしかしたら信念とか良心といったものだったのではないだろうか。

 しかし、私たちは信念や良心を曲げざるを得ない正当な言い訳なんかは存在しないと、そのような言い訳が受け入れられることはないと分かっている。お金も家族も言い訳にはならない。ただ、心に嘘をついてしまった悲惨な生き物が残ってしまうだけなのだ。

PS。職業に貴賤なし。何をしながら誰と関わりながら生きていようが、重要なのは「善良な心」を守っているか否かだ。



sorakotoba




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