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千と千尋とカオナシの正体、そして人間の本性を知る方法

 食欲が抑えられず他の人の食事まで貪った親が豚になった後、放置されていた遊園地に暗闇が広がりながら千尋の冒険は始まる。美しくて色鮮やかな宮崎駿のアニメーションは、最初の方から意味深い。まさに、欲に囚われた親をもつ子供は悪霊の世界に無防備に晒されているのと同様だと言っているようだ。

 親から離れた千尋は、同年代の男の子のハクに出会って、ある温泉に入り込むようになるが、実はこの温泉が遊郭または風俗店を意味しているとのことが、さまざまな象徴から分かる。お客を色んな姿の妖怪に設定し従業員も蛙や魚など可愛いキャラクターに描いているため、童話的な感じはするが、結局お客が食事をしながら谷間の見える着物姿の女子にお風呂の付き添いをしてもらう場所だ。しばしば登場する門を通して映る部屋の中の奇怪な風景も、同じような暗示をしている。

 そうやって遊郭で働くことになった千尋に選択の瞬間が訪れる。お客の中に紛れ込んだ顔のない妖怪「カオナシ」による試験だ。カオナシは、千尋が風呂場の薬剤の札を必要としているときに、容易には手に入れられない数多くの貴重な札を差し出して誘惑する。ぱっと見心の優しいお客に違いない。しかし、千尋はこんなに沢山は必要ないと、首を横に振りながらカオナシのプレゼント(?)を断る。千尋の断りにがっかりしたカオナシは、皆大好きな金で店員の蛙を誘惑し、蛙は欲望のままカオナシが差し出した金を喜んで貰った。それでカオナシは「タダの金」を拒まなかった彼を捕まえて飲み込んでしまう。遊郭の他の従業員たちも、カオナシの金の前で欲望を抑えることができず、結局は数人が飲み込まれた。自分の心の奥深いところに渦巻いていた欲望に、自ら飲み込まれてしまった様だ。

 ひょっとしたら、カオナシは角のついたサタンや悪魔よりも恐ろしい存在なのかもしれない。彼は相手が何を欲しがっているのか知っていて、その欲望を正確に逆利用して腹を満たす。残酷だ。力強くて金持ちで魔法使いだったカオナシ。やられたと気づくまでは、彼は「気前の良いお客」であり「篤志家」であり「能力者」なのだ。人が食われるところを目にするまで、遊郭の全ての従業員たちは歌まで作って彼を崇めていた。皆が身体を伏せてカオナシに向けて恵んでもらえますようにと祈る様子は、現代の宗教に似ている。(特に教会という所は、欲望を無くしてくださいと祈るべきなはずが、叶ってくださいと祈っている。)

 しかし、それほど恐ろしいサタンの裏ボス級のカオナシも、千尋の前では気が滅入る。千尋は、自分が必ず必要としていない札や金なんかを、断ることができるからだ。親を救うためにやむを得ず鬼婆の遊郭代表の湯婆婆のもとで働きながらも最善を尽くしたし、親に対する、そしてハクに対する「愛」にのみ集中したからだ。そうやって惑わせられない綺麗な心の持ち主である千尋の前で、カオナシは縮まり続けて、結局は愛犬ぐらい無害な状態となる。人生を生きていく上で、私たちが必然的に出会うしかない存在、そのサタンや悪魔の正体と弱点を、宮崎監督は的確に指摘している。(もしかしたらカオナシは私たち全員の心の中に宿っている存在なのかもしれない。だから顔がないのかも。)

 結局、千尋はカオナシによる試験に勝ち、「愛の力」と「欲望のない心」で全ての登場人物の好意を得ることに成功し、彼らの助けのおかげで親を救った。妖怪も、鬼婆も、遊郭の売春婦たちや従業員たちも、誰しもが「良心」というものを持っている神の被造物であり、その良心を感動させる純粋な心の持ち主は、サタンに、妖怪に、悪魔に、害されることがないという、それで欲望に満ちて豚になってしまった親さえも救い出せるという、世界の秘密を秘めている『千と千尋の神隠し』。そして正体を明かした「カオナシ」。大好きにならざるを得ない作品だ。

-「千と千尋とカオナシの正体」中

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 ジブリが誇る傑作、『千と千尋の神隠し』。時代や世代や国境を超えて多くの人々に愛される作品の共通点は、人生というものやこの世の成り立ち方に対するある程度の真実が含まれているというところにある。性別・年齢・時代・国籍・人種・バックグラウンドに関係なく、人間ならでは誰しも共有している唯一の情緒(私はこれを「良心」と言いたい)、それに訴えられる作品は大衆的に評価される場合が多い。もちろん、内容が深すぎたりして的確に解釈しないと作品の中の真実に辿り着けないことも多い。だから映画やドラマを通して何か知見を広げたり悟りを得たりしたければ十分な注意を払って解釈すべきで、特に良心的に何か感じられるものがあるとしたら、その正体を詳細に探る必要がある。映像鑑賞の際にも「意味」を求めるような方々に向けて言っている。本当の意味を見つけるためには、良心に頼るべきだ。

人々の欲望に比例して肥大になったカオナシ

 千尋はカオナシの誘惑を拒むとき、「私が欲しいものは、あなたには絶対出せない」と言った。とても意味深い台詞だ。

 人の本音を見抜くことは人力では不可能だ。しかし、誰かのことを最も深く知ることの可能な方法があるとしたら、それは彼にとって「失うことのできないもの」が何か探ることのみだ。コーマック・マッカーシーが台本を書いてリドリー・スコットがメガホンを握った映画『悪の法則』にて、麻薬取引の中間管理者だったウェストリー(ブラッド・ピット氏)が言った有名な台詞も同じようなことを意味している。

"You don't know someone until you know what they want"

 「本当に願っているもの」は、すなわち「失うことのできないもの」であるため、あの台詞はこんなふうに変えても成立する。

"You don't know someone until you know what they can't lose"

 もし欲しているもの(失うことのできないもの)が「幸福」である人がいるとしたら、残念ながらあなたはその人のことを信じてはいけない。たとえ、その人が自分自身だとしても。

-「失うことのできないもの」中

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 千尋が欲していたのは幸福ではなかった。親やハクへの愛と彼らを救うこと。それ以上求めていなかった。(愛と幸福は絶妙に異なる概念だ。)愛と崇高な目標だけで武装した千尋が、実は魔法使いでお金持ちのカオナシより遥かに強い存在であることを私たちは知っている。千尋は自分が必要としているものと自分に必要なものとそれを手に入れられる正しい方法を知っていた。そしてカオナシとはそれが無縁だと判断ができた。賢くて純粋で一途な、それで無敵になれた千尋の生き様から私は人生の意味を学ぶ。

 私にとって「失うことのできないもの」は何だろう。失いたくないもの、手放したくないもの、最後の最後まで守りたいもの。それこそが私という人間の本性を教えてくれるのではないだろうか。

「失うことのできないもの」が何かによって、人間は二つの部類に分かれる。

 まずは「幸福」が手放せない部類だ。努力して手に入れたものにせよ、たまたま与えられたものにせよ、自分に特別な楽しさを与えてくれる何かに強い愛着を見せる場合に該当する。大多数の人間はこっちだ。グルメ、お金、セックス、地位はもちろん、音楽や美術やスポーツまで幸福感を得られるものだったら何でも「失うことのできないもの」になり得る。この部類の共通した点は、幸福をより簡単に、より多く得るために真実を歪めたり隠密な秘密を作ったりすることだ。その秘密が大きかろうが小さかろうが、問題はあくまでも秘密があるかないかに関するものだから。

 次は「良心」を失うことのできない部類だ。同じく幸福感を感じるのを好んで楽しむこともできるが、快楽や利得のために良心を妥協することを極度に憎む。彼らは良心を「守る」ためなら、どんな利得も、強いては命さえも諦める準備ができている。生まれた時からこちらの部類に該当する人はいなくて、周りと変わりない人生を生きていたとある日、これ以上良心を汚していたら狂ってしまいそうという感じに引き寄せられて、すべての過去を悔い改めて新しく生まれ変わる方式で「覚醒」した人々である場合が多い。人によっては「良心」を「真実」に表現することもある。

 一つアイロニーなところは、二つの部類の中で後者の方が人生の中で幸せと満足を感じる時間がもっと長いということだ。前者の場合、良心を売った上でもっと違う何かが得られるかもしれないが、いざ願っていた幸福感は長く感じられず常に何かに追われているような生き方をしてしまう。結局、メディアや大衆文化が描写する様子とは違って、一見華麗には見えない後者の方に良心も幸福も全部もってかれる勝者独占という形で結末に至る。

-「失うことのできないもの」中

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 私は、心の中に刻まれているあの真実を守り抜く人になりたい。そうやって周りを感動させる存在になって、豚に変わってしまった親も、鬼婆の捕虜になったハクも救えるような人生を歩んでいきたい。

ハクを救った後、うれしそうな千尋

PS. 私の愛する、人生と愛の意味が詰まっている『悪の法則』については、後々深く語ることにしよう。


sorakotoba

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