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他人への怒り。自分の闇の昇華【100日継続】
健康診断に行ったんだ。
健康診断専門の階がある病院で、とても混んでいたのね。
受付で、やたら、ハキハキと声の大きな、背の高いおじさん(受診者)がいて、
私は「声がうるさいな」と思ってたんだ。
何というか、
受付の方に伝える声じゃなかったの。
おじさんの声のベクトルが、明らかに飛び散っていた。
まあ、そういう人いるよね。
と、思って気にしてなかったのね。
しばらくして、そのおじさんは採血検査を終え受付に行ったらしく、
その時の声が私の耳に届いて、事態を認識することになったんだ。
受付の前で、
採血された後の腕を押さえて立つおじさんと、
「大丈夫ですか?具合悪かったりはしないですか?」と明るく優しく声をかける受付の職員さん。
その途端、
おじさんは方々に矢を飛び散らすような声で「少し気持ち悪い」と言って後ろにフラついたんだ。
こんなに張りのある声でフラつく人なんているわけないんだけど、
近くにいた小柄な女性の職員さんは悲鳴をあげて身体の大きなおじさんを支え、
受付の中からも咄嗟に数人の女性職員さんが駆けつけて、5人ほどでおじさんをサポートした。
その対応はとっても素早かったんだ。
職員さんたちが、受診者たちの健康状態に神経を張り巡らせていることがよくわかった。
そのおじさんは、女性職員さんに支えられ囲まれたあげく、しばらくて
「冗談だよ。気持ち悪くなったことなんかないよ。」
と、矢を飛び散らかした。
それを見て私は腹が立ったのだ。
ーー
もちろん、普通に考えて迷惑行為であることには違いない。
混んでいる病院の忙しい、しかも男性職員のいない受付で、揶揄うなど迷惑極まりない。
しかも、数秒囲まれてから冗談をネタバレするとか、セクハラに近い。
しかし、私の腹立たしさは、すぐには言語化できないところからモヤモヤと発していた。
ーー
これは深いな。何だろう。
内側を見ていくと、そのおじさんをヒントに、自分の中に後ろめたさが浮かび上がって来た。
自分の後ろめたさが、おじさんを使って表層化したみたいだった。
何の後ろめたさかというと、
・仮病
・構われたい
・許されたい
という、こどもの頃の思いだった。
ーー
私はよく怒られていたこどもで、物心ついた時から辛いことが多かった。
具合が悪くなるとそれ以上責められずに寝させてもらえる。
そんな生き残り作戦を習得したのは、たまたま具合が悪くなった時だったのだと思う。
早い時間から布団に寝かせられ、ひとりだけ部屋に納められる、静かな時間。
不機嫌な養育者(母親)は、こどもが病気になっても怒ってはいたが、「おとなしく寝てなさい!」という怒り方だったので、こちらとしては楽だったのだ。
それでも通常時より、食事や汗、体温、薬などに気を使ってもらえる。
私にとって、病気は安らぎの時でもあったのだ。
覚えているのは小学4年生の時。演劇部だった私は、演技の力を試そうと、仮病を使った。
具合が悪いことにして、家族と過ごすことを避けた。
うまく行った。仮病はバレていない、演技は成功だ、と思った。
病気だと、少しは気を使ってもらえる。
つまり、構ってもらえる。
許される。
だけど、ほんとうは仮病なんだ。
そんな後ろめたさが罪悪感になると、私はどう生きたら良いのかわからなくなってしまうので、心の闇に閉じ込めて放置しておいた。
それが、今日のおじさんの姿を通して浮かび上がったのだ。
ーーー
ここまでわかると、今日のおじさんはもう使用済みの茶殻、カスみたいなもので、あとはゴミ箱にポイっとすれば良いだけ。持ち続ける必要もない。この感じを、「手放し」というのだろう。
おじさんよりも私のことのほうが、わたしにはだいじ。
今日の変なおじさんの姿から、私の奥深い闇に光が届き、無かったことにしていた自分のかけらを「あるなぁ」と認識できた。
それはとても愛おしいと感じられる。
だって、だいじなわたしの一部だから。