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「親」への憤り→自分の中のまだ見れていないところに触れ始めた話【100日継続】
思うことを、ChatGPTに整理してもらった。
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熊野本宮大社の手水場で、親が子どもの頭を叩く場面を目にし、思わず「叩くな。バカか」と大きな声で呟いてしまった。強い怒りが込み上げてきた。
なぜ私はこれほど怒っているのか?それは、親が「子どもの頭を叩くのは当たり前」と思い込んでいることにある。その無理解が、悲しい子どもを増やし、負の連鎖を生み出していくからだ。そうした行動は子ども自身だけでなく、その友達や周囲にまで影響を広げ、負の感情を感染させていく。
さらに腹立たしいのは、親がその行為を正しいと思い込み、未来への影響を全く考えていない浅はかさだ。その無自覚さ、知性の欠如に強い憤りを感じる。
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以上が昨日の私の思ったことだが、ChatGPTにまとめてもらって客観的に文章を眺めながら、今度は自分自身に対するひっかかりが生じて来た。
ひっかかりのポイントは、以下の通り。
・未来への影響を全く考えていない浅はかさ
・その無自覚さ、知性の欠如
そうなのだ、私自身が私自身に対して強い憤りを感じているのに、自分では無意識に抑圧して触れられないところだったのだ。
自分が「汚い」「ダメだ」「失格だ」などと否定的に感じていることなので、自分自身も許されておらず、その心地悪さから逃れたくて外部に目をやり、外側に映る光景に腹を立てるのだが、その根本は自分の無意識の投影に過ぎない。
自分の中に、許されていない感情が、ある。それが知れただけでも、この一件(熊野で見た出来事)は自分解放の大きな手がかりとなった。
どうしてもうまく対応できない自分を感じながら、どうすることもできず、内在宇宙に助けを求めて、少しずつ自分がほどけていく。
こんな体験をしたくて、ややこしいことをしてきたのかもしれない。
シンプルを知るには、その逆の複雑を知らないとわからないものだ。
だんだんと、自分が還って行くのを感じている。
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先に書いた、自分への憤りはかなり傷が深く、今すぐに全て触れることができない。
かさぶたを一気に剥がすのではなく、少しずつ、優しくふやかしながら、皮膚を傷つけないようにそっと取り除いていく。
そんなやり方が、自分には合っている。時間をかけても良い、自分を丁寧に扱いたい。そうすれば、自分以外の人間の扱いを丁寧にできる、自身の力を信じて自身をケアするという世界に入れるのだから。