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瞑想の道〚47〛自我の功罪

 瞑想をして真我実現しようとすることは、自我にとってはうんざりすることだ。無意味に感じることであり、それを続けることが苦痛に思えることもある。瞑想しようとするたびに重苦しい気持ちになることもあるだろう。基本的に自我は瞑想に対して、その結果としての報酬が欲しいのだ。願い事が叶う、幸せな気持ちになる、人生が良い方向に変わっていく、そういった結果を求めている。真我実現にはそういったことが一切ない。もしそういった報酬を約束してくれる瞑想の師がいれば、自我はそれを賛称し、これが求めていた正しい道だと信じたくなる気持ちになるだろう。瞑想によって幸福になり、幸福になる瞑想を教えている師も正しい道を教えているという自負を持つ。自我に厳しい真我実現の瞑想をしている者にとっては夢のような話だ。瞑想者がにこやかになり、ポジティブな気持ちで生きるようになる姿を見た真我実現の瞑想者は自分もそんな幸福を得たいと思うかもしれない。自我の求めている幸福が実現する瞑想へと鞍替えしたくなり、実際にそうすることもある。

 だが、その幸福はいったい誰が求めているのだろうか。もちろん、それは自我だ。幸福を求めるのは自我でしかありえない。幸福になり、満たされてポジティブになればなるほど、自我は強大になる。いくらすべてはつながっていてひとつであるとか、非二元の存在だから自由だという話を知っていても、それは結局自我の理解の範疇においての話になる。超自我の話でさえ自我を強大化するために利用されているのだ。自我をすべて捨て去ったという話さえ、自我をすべて捨て去ったといっているのは自我だったりする。自我という存在は実に巧妙で、「私」を自我に惹きつけておくためには何でもする。瞑想で幸福になるという話は、そんな自我を惹きつけるのに十分効果的で、実際に多くの自我に対してその効果を十分に発揮している。

 真我実現の瞑想はそんな自我を「私」から完全に切り離すものになる。つまり、自我の幸福を一切無視していくのだ。これは幸福を否定しているのではなく、ただの自然現象として捉えるということだ。幸福になるかならないかが、真我実現の指標ではないということ。むしろ、不幸になることさえあると覚悟を促すかもしれない。不幸が身に降り掛かったときに、真我が失われたり離れたりするなら、それはまだ真我実現に至っていないということだ。それを証明するために自我が不幸になることさえ厭わないのが真我実現の道なのだ。こんなやり方を自我は嫌がるだろう。自我の本性である幸福を求める気持ちが踏みにじられ、価値がないといわれるように感じるからだ。ただ、それでも真我実現を求める自我は存在するのだ。

 私たちの多くは自我を信頼している。だから「私」を自我に委ねてきた。そこには最善の自我、完成された自我を成就するという目標がある。それが実現されれば、「私」は安泰であり、あらゆる束縛から解放されると信じている。だが、それが実現されたためしはない。幸せを身にまとった強大な自我になることはできるだろう。ただ、そうなっても自我はあくまでも自我でしかない。自我という束縛はそこに必ず付いて回る。自我は例外なく世界に束縛されている。すべては流転していて、そこに変化の波があり、創造と破壊、幸福と不幸、成功と失敗、光と影がある。自我は目標に到達した喜びを強調するかもしれないが、それは転落の前兆でもあるのだ。その理を知っている自我も存在する。その自我が世界という呪縛を解くために、自ら厳しい道である真我実現の瞑想をするのだ。

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