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瞑想の道〚16〛陰陽の彼岸

 真我を悟ったとしても、不安になったり、恐れたり、ジタバタしたりしなくなるということはない。それは悟っていないからだと言われるかもしれないが、むしろ不安になることも恐れることもジタバタもしないのであれば、それは悟りではないとも言える。悟りとは心の状態をポジティブに保つことでもなければ、何事にも動じなくなることでもないのだ。多くの人々は、ネガティブな心の状態を改善できるのであれば、悟りについて学ぶのもいいかもしれないと思うだろう。だが、どれだけ悟りについて学び、修行をしても、その改善はなされない。ある意味、悟りとはその改善がなされないことなのだ。

 それでは悟りとは何なのか。それは自分が真我だと悟ることだ。真我にはポジティブもネガティブもない。平穏や不安、恐れや安心、落ち着いていることやジタバタすることもない。どちらの状態にも傾かずに、姿かたちのない無口な存在としているのが真我だ。自分の心や行動をポジティブに変えようとすることは間違いではなく、むしろこの世界ではいいことなのだが、そういったことに左右されない完全ということを目指すのであれば、この真我を悟る必要がある。そこでのみ、この思い通りにならない世界における自我の探求は完結できる。そうでなければ、いつまでもネガティブな問題は自分について回るだろう。ポジティブであることさえ一時しのぎであり、それの影となるネガティブな問題を根本的に解決したわけではないのだ。

 真我であれば、心が落ち着き、不安や恐れがなくなると感じる人がいる。それはいいことではあるのだが、それよりもジタバタと焦っていて、不安や恐れがあることで、真我であることを確かにできる。心の状態がどうであれ、真我は平然とそこに在ることが感じられるからだ。実際にそう分かれば、真我であることがどういうことか、より理解が深まるだろう。もちろん、心が落ち着くことを拒否する必要はないが、ジタバタと焦っていても、それはそれでいいということだ。これは自分に起こることをあえて受け入れようという考え方ではない。真我はそういった心の変化に影響を受けない状態でしかいられないということだ。

 自分が真我であると悟ることは自我を平穏にすることではない。真我を悟ったとしても、人生に起こることに焦り、苦しみ、何とかして乗り越えようとジタバタすることさえ、その自我には起こる。それは自分ではないため、そうあったとしても、真我は何も困らない。それは世界と自我に起こっていることであり、推し量ることのできない時空の緻密な動きに因るものなのだ。真我はそれを見通していて、まるで秩序や救いがないように見える世界と自我をを信頼している。それはこの時空の最後が真我に収まると知っているからなのだ。

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